マルクス・ブライトシュミッド: ヴァレリオ・オルジアティがあるレクチャーで、「私のクライアントで、ホームレスになりたがっているやつがいるんだ」と言っていたのを覚えています。私のことだと思っていますが。私は住む場所を変えるのが好きですし、とりわけ一つの国や地域にあまり執着しすぎない遊牧民的な性質は、おもしろいと思っています。ヨーロッパを離れて、アメリカに住むこととしたのですが、今でも年に4ヶ月はヨーロッパに滞在しているので、ヨーロッパとアメリカでの生活が混同しないように気をつけているのです。生活のリズムや習慣がそれぞれの場所で全く違うものになるようにね。ヴァレリオはそのようなことを全て理解していますし、アメリカに家を建てるというアイデアを思いついた時には、彼が建築家となることは自然な選択でした。マナホーク・ハウスは、私たちが共に仕事をする延長線上にあるのです。建物を作ることは、本を書いたりインタビューを受けたりすることとは明らかに違う仕事ですが、ある意味では、一つの区切りだと思っているのです。私たちはお互い成長したと思いますし、少なくとも私自身は、ヴァレリオとの長い付き合いのおかげで、建築に対する理解が深まったと思っているのです。私たちの出版した本を読んでいただき、彼の作った建築を見てもらえれば、思考の継続的な進化がわかってもらえると思います。
家を建てる上での当初の夢は何でしたか?どのようにヴァレリオに要望を伝えたのですか?
予算を与えて、それで想像できることは何でもやっていいと彼には言いました。唯一の条件は、収納があることと、料理をするためのキッチンが必要だということ。それ以外は、完全に自由としました。
私の立場として、これは少し宿命的でもあると思うのですが、常にそうした立場をとっていたのです。優秀な建築家に建物を建ててくれと頼みながら、指示することなどできませんよね。家がどうあるべきか指示したいのであれば、凡庸な建築家に頼むべきでしょう。
この家には、三つの主要な要素がありますよね - プラットフォーム、Aフレーム、そしてシリンダー。家の中心を占めているシリンダー状のボリュームの特徴に関しては、どのように表現されますか?
主には二つの価値があります。明らかなことですが、実利的な側面 - 機能的な家でなければならない、ということ。ストックしておくべきものは全部シリンダーの中に入ります。
しかし一番の価値はといえば、空間が作られている、ということですね。シリンダーが平面上で中心からずれているということが、空間をいくつかの非常に明確な領域へと構造化しているのです。スライディングウィンドウのある部屋の正面では高さが33フィート(約11m)にもなりますが、その一方で、別のところでは高さがゼロまで下がってくるのです。同時に、シリンダーの位置によっては、部屋の幅がわずか4フィート(1.2m)になるのです。ギュッと絞られたところでは、狭さによってドアやフレームがなくとも敷居が形成されるのです。シリンダーの端からもう一方の端へと移動していくと、背の高いメインウィンドウの前を渡っていき、小さなポケット状の空間へとたどり着きます。ここは最も守られた空間で、原始的な本能のためか、自然と眠りにつくことができるのです。洞窟のような特徴がありますし、シリンダーの配置のおかげで、奥へといくほどに全てが閉ざされて暗闇に溶けていくのです。窓は一切ありません。
ここと反対側の場所には、私はそこで仕事をするのかもしれないのですが、同じ図式の空間がありますね。ただ、こっちは7mもの窓が屋根から切り取られていて、光が差し込み、見ようと思えば、木々を眺めることもできるのです。信じられないほどにシンプルな家なのですが、どのように空間が作られるのか、どうやってその空間が照らされるのか、に対して注意深く意識が向いていて、全然他とは違った、それでいて豊かな空間になっているのです。
シリンダーが中央に配置されていたら、まったく違っていただろうし、もっと貧相で予測可能な空間になっていたでしょうね。ヴァレリオは、シリンダーとAフレームをとても正確な方法でシンプルに組み合わせながら、非常に複雑なものをデザインしたのです。これらの空間の境界線が一体どこになるのかは、正確にはわかっていません。私が説明した方法で想像してみてください。境界線をある種の敷居だと考えることもできるのですが、もちろん本当のドアやまぐさ、あるいは部屋を作る時に普通必要とするようなものは一切ないのです。
シリンダーの内部は、最も一般的な乾式の壁を白く塗装し、かなり明るいLEDライトで照明する予定です。ガレージから家に入るとき、あるいは大広間から出る時には、このような実験室のような空間に入るのです。スチールの階段は屋根裏につながる予定です。それに実用的な金属のシンク、大型冷蔵庫、冷凍庫、洗濯機、乾燥機、いくつかのキャビネットなどが置かれるでしょう。これらは全て家庭的なオブジェクトですが、「家庭的な」方法では具現化せずに、シリンダーの中にあるもの、そしてカルトスペース、私がそう呼んでいるのですが、との差別化をできるだけ強く保つようにしているのです。
図面を見ていて印象的だったのは、それぞれの種類の要素が一つずつ使われていることです。つまり、一つの水平窓、一つのドア、一つの天窓、一つのシリンダー、そして一つのAフレーム。後にこのシステムでは例外が発生し、天窓が二つとなっていますよね。疑問に思っていたのでお聞きしたいのですが、建物が単一の要素の組み合わせで構成されると、空間的にはどういったことが生じるのでしょうか。
いい質問ですね。単一の要素が建物の構成に与える影響とは何か?
その点に関して参考になるのは、ランドクアルトのプランタホフ農業学校の講堂でしょうか。
そこへ行くと、梁や柱などの構造的なパーツが全て目に入ってきますが、それらはほとんど、装飾のように思えますよね。なぜなら、そこにあるだけでまるで取ってつけたように見えるからです。歩き回らずに、ただ中に入るだけでは、この建物のロジックは理解することできません。人は、柱が集まっているのが見えると、はいはい、これが構造でしょう、と言うと思います。ただ、プランタホフの場合は、全ての要素が個性的なのです。倒れかかる斜めの柱や、屋根を支える梁。それらを頭の中で縫い合わせていく必要があるのです。外へ出て、柱を見て、壁を見て、それから屋根を見て、そしてゆっくりと全てを繋ぎ合わせることができるのです。建物のこのクオリティを維持するには、他の方法では建てられなかったことが理解できると思いますよ。普通の建て方では、規模と距離が大きすぎますからね。
マナホーク・ハウスにおいては、一見して単一の要素を寄せ集めたように見えるかもしれません。実際には、まさにその逆なのですけどね。別の方法では、建物として機能させたり、空間的な質を保つことができないような有機体なのです。ランドクアルトでは、構造を過激に使うことで、有機体が形成されています。ただ、この家においては、構造が空間を作るメインの要素ではなく、シリンダーは、Aフレームを構造的に支えることには一切関係ないのです。それよりも、ここでは様々な補完的空間を結びつける、ソリッドなボリューム、ヴォイドなボリュームについて、たくさん話し合ったのです。それは、どこかのパーツが取り除かれたり、追加されたりすると機能しないような有機体を作っているのです。これらは、ヴァレリオの建築的空間に対する熟練の技によってなされることです。 すごく基本的な事から、空間的にも雰囲気的にも複雑なものを作り出すという技術ですよね。
先ほどお話しされた遊牧的性質に関連することですが、この家にテントのような特徴が与えられているのは、あなたが意図されたことなのですか?
私は、この家をただのテントだとは思ってないのですよ。神殿でもあるのです。テント-テンプルですかね - 矛盾していると思いますが。考えとしては、この家は永遠にそこにありつつも、どこか別の場所へと移動することもできる、ということですかね。この二つの極端な状態を共存させることがとても重要でした。
この三角形の家は、周辺の大きく木々の育つ台地からは少し高いところに位置しています。コンクリートはやがて苔に覆われたり、緑青がつくでしょう。あっという間に時間を超えたようなものになるでしょうね。ただ、このような抽象的な形をしているので、ぱっと見では、緑青とは似合わないと思いますが。家自体は、鉄骨造です。波型鋼板で覆い、内部と外部には手作業で無煙炭色の塗装がなされる予定です。近づくと、テントのようなフラジャイルな質がわかるでしょう。テンポラリーで、素早く作られたようなね。でも、遠くから見ると、木々の中の神殿として見えてくるでしょう。
神殿のように感じてもらうためにも家庭的な雰囲気は一切出したくないのです。大きく、背の高い空間の中で、家に関係するものと言えば、キッチンの蛇口くらいですかね。水が出るということは、つまり誰かがここで時を過ごしているということです。それ以上は、何もありません。
この家は、家庭的であるべきではない、という野心で設計がなされていますが、なぜ、あなたにとっては居心地の良い家でないことが重要なのでしょうか?
この建物を様々な方法で使用することは想像できますし、おもしろいと思うのです。常に住む場所としてだけではなくてね。居心地の良い家は、そう簡単には別のものには変えられません。それに居心地の良い家というのは、ある一定の規模や大きさのある事を想像させるような場所ではなないのです。適切な場所や時間における居心地の良さに反対するわけではないのですが、多くの家に見られるこの典型的な居心地の良さが、私にとってはあまりに窮屈で、束縛されてしまうのです。
これらの部屋が、パブリックスペースや、リサーチセンター、展示室、そしてコンサートホールへと一週間の内に何日でも変われることが、私にとっては重要なのです。友人にピアノ演奏者がいるのですが、すでに200人規模のコンサートを開くことも考えているのですよ。
誰かがこの建物を使う代わりに、一週間くらいホテルの部屋を借りなくてはいけなくなったとしても気にしません。もしくは中で何かが行われていたとしても、そこで寝るだけです。
ブライトシュミッド・ハウスとは呼ばずに、マナホーク・ハウスと呼ぶこともとても重要です。そうすることで、ほとんどの人は、それが何のことなのかわからないでしょう。建物に特定の人の名前をつけないのは意図的です。それに、家と呼ぶことにも注意が必要です。というのも、普通の意味での家ではないと思っていますから。むしろある種の文化的人工物として考えています。
素材の話をしましょう。「ノンレファレンシャル・アーキテクチャー」の「単一素材の原則」の章を読んだ後に、波板鋼板とコンクリート、そしてアスファルトでできたこの家を見ることで、いくつかの疑問が湧いてきました。全ての素材に黒い影が落ちることが、建物の素材の一貫性に貢献しているということでしょうか?
アメリカでは、前庭と後庭の文化があって、つまり二つの全く異なる世界が存在することとなるのです。人々が普通、前庭を大切にするのは、外からの見た目が重要だからですよね。もちろん我々はそんなことには興味がないので、車道からは、アスファルトのプラットフォームへと直接乗り入れるのです。ヴァレリオがやりたかった多孔質のアスファルトは内部ではうまく機能しませんよ。だから基本的には床材は二つとなりました。家の内部の床材は、ラフでとても暗い、無煙炭色のコンクリートです。素材を具現化していく目的は、素材の属性とできる方法を用いて、十分な異化作用を作り出すことにあるのです。大事なことは、他のあらゆる手段に先んじて建物が形式的なアイデアとして存在することです。
この特殊な建物とその性格から、これらの素材は適切だったと思っているのです。オルジアティはたぶん全てをコンクリートで作りたかったと思いますが - 私にはどうもその余裕がなくてね。プラットフォームは地球に属するものです。その上に、薄くてほとんど布のような金属の板を設置する。建物自体は三角形で、すベて金属。窓以外はね。
同じように要素還元的な手法によって、この家は、閉じた不透明なオブジェクトとして内部と外部を明確に分けていると思います。また非常に大きな窓もありますね。内部と外部との関係はどういったものになるのでしょうか?
スライディングウィンドウはプラットフォームまでは降りて来ずに、20センチほどの立ち上がりが来る予定です。家の中のキッチンカウンターの場所では、窓を開けると、敷居をまたぐことになるのです。大きな窓があるのですが、外を眺めているときは、それは窓というよりもやはり壁の一部なのです。内部-外部の関係についてのあなた方の具体的な質問に関してですが、ヴァレリオがどう捉えていたかを考えるきっかけとなりますね。その意味では、これはテントのようなものでしょう。テントでは、どうにかこうにか布をわきに押したりして、中に滑り込んで行きますよね。つまり中に入るか外にいるかは意識的に決めることなのです。
開口部は、光源でもあって、境界線でもあるのです。これらの窓を背にして、まずは外を見渡そうとは思いませんよね。中にいる、というわけでもなく、少しだけ外を感じるという状態のことですが。いずれにせよ、それは意図していることではないですし、大きな部屋からはそんなに遠くまで見渡すことはできません。木々の続く末端まで歩いていって、そこから遠くを見ない限りは。
その他にも、別の矛盾があったりして、私はこの特別な場所に惹きつけられているのです。この土地は、近隣の中でも、たくさんの木々の育つ唯一の土地で、大きなオークの木やカエデの木があるので、春や秋、全ての季節の変化を感じることができますよ。とてもドラマチックです。
夏の間は、この家は葉っぱのキャノピーに守られているのですが、その一方で、冬はかなり開いてしまって剥き出しになってしまいます。季節ごとに周囲の木々の密度が変化することで、この土地での内-外間の生活の複雑さが強調されるのです。家から出てもすぐには外へと晒されるわけではないのです。それにアパラチア山脈とブルー・リッジ山脈の景色が連続的に広がっているのですよ。
この家において、アパラチア山脈の環境というものは、どのような役割を果たしているのでしょうか?
ヨーロッパの人たちは、アメリカを若い国だと思っていますが、この土地を見ていただければ、いかにここが古いものかわかるでしょう。かなり古いのですよ - だって我々の地球上で最も古い土地の一つですから。地質学的には、アルプス山脈やヒマラヤ山脈よりもずっと古いですし、そう感じられると思います。近くにある川は、ニューリバーという名前なのですが、世界で二番目に古い川なのです。ここに来て、いくらか周囲の状況を把握できるようなると、そのことに気付きますよ。古代の土地にいることを実感して、それが特別な感覚を与えてくれるのです。このような風景を見ていると、世界のことや宇宙論、そして私たちがどこから来てどこへ行くのか、などを考えさせられます。モニュメンタルなことですね。生々しくて、荒々しくもあるような。気難しいような細かさは全くなくて。私たちが抱くようなアルカディアのイメージとは真逆です - 地中海から連想されるような、うわべだけの牧歌的な無邪気さとはね。この土地は全く粗野なところではなく、特に冬はそうですね。冬にはこの土地は最高なのです。不毛だけど、開放的で。奥行きがある。ロスコやポロックの絵画のようですね。
イマジネーションの世界を広げて、可能性を示唆してくれる。それはこの土地の本質的な性質ですし、この家はその形態とその素材によってそのことを摑んでいるのです。この風景の存在は、古代のネイティブアメリカンの部族がゆったりと土地を移動するキャラバンを想像させるのです。儀式での反時計周りの輪舞「Ly-O-Lay Ale Loya」を唱えているのを聞いたりするとね。
だからね、さっき言ったように、この家を車に積んで50マイル先の次の場所で降ろしたりして、ほらネイティブアメリカンの遊牧民のテントとそう変わらないなと、想像できるでしょう。いやほんとに、この家に来てみたら、シャーマンになった気分になると思いますよ。
インスタグラムで公開されたイラストには山の断面が描かれていましたね。これは一体何を表しているのでしょうか?
トーマス・ジェファーソン、私が過去500年で最も重要な声明文だと考えている、あの独立宣言を書いた彼は、ヴァージニア州に住んでいて、この近くにネイティブ・アメリカンの埋葬地があることを発見したのです。彼はこの近くに土地も所有していました。
アメリカの東部で、古代建築物の名残はといえば、これらの人工的なマウンドだけですね。何千年もの間かわかりませんが、ここに住んでいた古代部族の痕跡は何も残っていません。そのイラストを投稿したのは、この家に編み込まれたたくさんのインスピレーションが何となくですが、集約されていたからです。ただ何かを真似ているのではないし、過去のことでもなく、何かの物語でもないのです。歴史とかそういうことでもありません。少しでも何かを読みとろうとされるのであれば、それは正反対のことでしょうね。歴史や時間を超えたものだと思います。それはもっと時間を超越したもので、時間の存在しない場所で生きるということです。測ることのできないね。ある種の広大さ。自由。この土地のことを熟知したヴァージニア人が、個人に自由を与えるための文章を書けたことは、たぶん偶然ではないだろうと思う時があるのです。私も、とても自由な建物に住めるのだろうと思っていますよ。
2021年3月6日
Markus Breitschmid: I remember Valerio Olgiati saying in one of his lectures: „I have a client who wants to be homeless”. I believe he was referring to me. I like changing the places where I live, and I especially appreciate the nomadic quality of not being attached too much to one country or territory. I left Europe behind and embraced living in America. Because I am still spending around four months in Europe every year, I’m very careful not to let my lives in Europe and in America conflate into one. I try to keep the rhythms of life and the rituals of life of each place quite different from each other. Valerio knows all of that. So, when I came up with the idea to build a house in America, it was a natural choice that he would be the architect. The Manahoac House is a continuation of our work together. Making a building is obviously a different kind of undertaking than writing a book or making an interview, but in a way, I see it as another chapter. I think we have both grown or, at least, speaking for myself, my understanding of architecture has grown thanks to my long relationship with Valerio. If you read the books we have published, and look at the architecture he has made, you can see a continuous evolution of thought.
WHAT WAS YOUR INITIAL DREAM? HOW DID YOU EXPRESS TO VALERIO WHAT YOU WANTED?
I gave him a budget and I said that he could do whatever he imagined. The only condition was that I have things to store, and I need a kitchen to cook in. But other than that, I gave him complete freedom. It is a little fatalistic on my part, but I always took the position: You cannot ask a very good architect to build a building and then tell him what to do. If you want to dictate how a house should be like, get a mediocre architect.
THE HOUSE HAS ESSENTIALLY THREE MAIN ELEMENTS - THE PLATFORM, THE A-FRAME AND THE CYLINDER. HOW WOULD YOU DESCRIBE THE QUALITY OF THE CYLINDRICAL VOLUME THAT OCCUPIES THE CENTRE OF THE HOUSE?
There are two main values. Obviously, the utilitarian aspect - it has to be a functional house. Everything that needs to be stored goes in the cylinder.
The main quality, however, is the space-making one. The fact that the cylinder is moved off centre in plan, structures the space into several very distinct areas. The front face of the room where the sliding window is, will be thirty-three feet tall (around 11 m), whilst at other points it goes all the way down to zero. At the same time the position of the cylinder brings the room to just four feet (1.2 m) wide, at the pinch points, a closeness that forms strong thresholds, without the need of doors or frames. Passing from one side of the cylinder to the other, you cross the strait in front of the tall main window and arrive at a small pocket. This is the most protected space, where out of primal instinct, you naturally go to sleep. It has a cave-like quality, and thanks to the position of the cylinder, as you go deeper, everything becomes more enclosed and dissolves into darkness. There are no windows at all.
On the other side, where I might work, you have the same delineation of space, but there is a seven-meter-long window cut into the roof, through which light enters, and, if you want to, through which you can look out at the trees. It’s an unbelievably simple house, but by being attentive to how space is formed and the way it will be illuminated, it becomes an extremely differentiated and rich space.
If the cylinder was in the middle, this would be a completely different, much poorer, and more predictable space. Valerio designed something very complex by simply combining a cylinder with an A-frame in a very precise way. I don’t know exactly where the boundaries between these spaces will be. You can try to imagine it the way I explain it. You could think of them as kind of thresholds, but of course, there are no real doors or lintels or any of those things that you typically have when you make chambers.
Inside the cylinder we will use the most conventional drywall, painted white and illuminated by very bright LED lights. When you enter the house from the garage, or leave from the grand dim space, you go into this kind of laboratory-like space. A steel staircase will take you up to the attic. There will also be a utilitarian metal sink, a large refrigerator, a freezer, a washer and dryer, and some cabinets. Even though these are all domestic objects, we will try not to materialize them in a ‘homely’ way, and work on keeping the differentiation between what is inside the cylinder and what is the cult space, as I call it, as strong as possible.
HAVING SEEN THE DRAWINGS, WHAT STRUCK US WAS THE USE OF ONE ELEMENT OF EACH TYPE: ONE HORIZONTAL WINDOW, ONE DOOR, ONE SKYLIGHT, ONE CYLINDER AND ONE A-FRAME. LATER AN EXCEPTION OCCURRED IN THIS SYSTEM, YOU HAVE NOW TWO SKYLIGHTS. WE WERE WONDERING AND WANTED TO ASK YOU, WHAT IS PRODUCED SPATIALLY WHEN A BUILDING IS COMPOSED OF SINGULAR ELEMENTS PUT TOGETHER?
It’s an interesting question; what is the effect of a singular element on the composition of a building?
A good reference in that regard would be the Plantahof auditorium in Landquart.
When you go there and you see all these structural pieces, the beam, the column and so on, you almost think it is a kind of a decoration because it’s only there once and it looks as if it was somehow attached. If you don’t walk around and you just go inside, you cannot understand the logic of the building. If you saw a bunch of columns, you would say, ok, it’s the structure. But in this case, all the elements are unique, there is the slanted column coming down and the beam holding up the roof. You have to stitch them all together in your head. You go outside, you see the column, you see the walls, you see the roof and slowly you are able to connect everything. You understand that in order to keep its qualities, it actually couldn’t have been built in any other way, because the dimensions and distances were too big.
In the Manahoac House, it might look like an addition of singular elements at first. In reality, it’s exactly the opposite. It’s an organism that really couldn’t perform as a building and preserve its spatial qualities in any other way. In Landquart, it is given by an extreme use of structure. In this house, structure is not the main space-making element. The cylinder doesn’t participate in any way to hold up the A-frame. Here we speak more about volumes of solid and void that bind diverse complementary spaces together and creates an organism that wouldn’t work if any part was removed or added. It is Valerio’s mastery of architectonic space: to make something so spatially and atmospherically complex out of something so basic.
IN RELATION TO THE NOMADIC QUALITIES, YOU SPOKE ABOUT, WAS IT YOUR INTENTION TO GIVE THE HOUSE THE CHARACTER OF A TENT?
I don’t see it as just a tent. It’s also a temple. It’s a tent-temple – which I realise is a contradiction. The idea is that the house has been there forever, but also that it could move somewhere else. It was very important to let these two extremes be present and co-exist.
The triangle stands slightly elevated on a platform with large, grown trees around it. The concrete will soon be covered with moss and grow a patina. Pretty quickly, it will look like something beyond time. Yet, having the shape of such an abstract object, the patina will be something, that at first glance, won’t match. The house itself will be a steel frame construction, coated with corrugated steel and hand-painted in anthracite color on the outside and inside. When you get close to it, you will see it has a tent-like fragile quality. Something that is temporary and has been built quickly. But then from a distance, it will present itself more as a temple among the trees.
We want it to feel like a temple and therefore we don’t want it to feel domestic in any way. In the large, tall space, the only reference to something that has to do with a house is going to be the faucet of the kitchen. Water comes out, it means that somebody spends time here, nothing more.
YOU SAID THIS HOUSE IS DESIGNED WITH AN AMBITION NOT TO BE DOMESTIC. WHY IS IT IMPORTANT TO YOU NOT TO HAVE A COZY HOUSE?
I can imagine, and I find it interesting, to use this building in different ways and not always as a place to live in. A cozy house is not so easy to transform into something else. A cozy house is also not a place that inspires me to imagine things at a certain scale and of a certain magnitude. I am not against coziness in the right place and moment but this typical sense of coziness that we see in many houses is too contained and too restricting for me.
For me it’s important that these rooms have a cultural dimension, transforming into a public space, a research center, an exhibition room, or a concert hall on any given day of the week. I have a friend who is a piano player, and we are already planning a concert for around 200 people.
I don’t mind if I sometimes have to rent a room in a hotel for a week because somebody else is using the building. Or I’ll just sleep amongst whatever is taking place inside.
The fact that we don’t call it Breitschmid House, but Manahoac House is very important. We do this so most people have no idea what it’s about. Not attaching a person to the building is intentional. We should also be careful calling it a house, as I am sure that it isn’t really a house in the conventional sense. I see it rather as a kind of cultural artifice.
LET’S TALK ABOUT MATERIALS. READING „NON-REFERENTIAL ARCHITECTURE” AND THE CHAPTER ABOUT THE PRINCIPLE OF ONE MATERIAL, AND LATER SEEING THIS HOUSE, WITH CORRUGATED STEEL, CONCRETE, AND ASPHALT, RAISES SOME ADDITIONAL QUESTIONS. DOES THE FACT THAT EVERYTHING HAS A SHADE OF BLACK CONTRIBUTE TO THE MATERIAL COHERENCE OF THE BUILDING?
In the USA, there’s the front yard and back yard culture and consequently these are often two completely different worlds. People usually take care of the front yard because the appearance towards the outside is important. Of course, we are not interested in this. From the street, you drive onto a platform covered with asphalt. The porosity that Valerio wants for the asphalt doesn’t really work for the inside. So, there are basically two floor materials. The floor inside the house is a somewhat rough, very dark, anthracite-colored concrete. The aim of the materialization is to produce a sufficient distancing-effect with the available means and attributes of materials. What’s important is that the building is present as a formal idea prior to all other ways.
I think for this particular building and its character, the materials are correct, even though Olgiati probably would have preferred to do everything in concrete – something I could not afford. The platform is what belongs to the earth. You then put thin, almost fabric-like metal sheets on top of it. The building proper, the triangle, is all made in metal, except the windows.
IN A SIMILAR ELEMENTAL WAY, THE HOUSE IS A VERY CONTAINED OPAQUE OBJECT THAT CLEARLY DIVIDES THE SPACES INTO INTERIOR AND EXTERIOR AREAS. THERE ARE ALSO VERY BIG WINDOWS. WHAT WILL THE RELATIONSHIP BETWEEN INTERIOR AND EXTERIOR BE LIKE?
The sliding window doesn’t go all the way down to the platform. There will be around a 20-centimetre upstand. When you are inside, where the kitchen counter is, and you open the window, you cross a threshold. Even though there’s a big window, and you can look out, it’s more part of the wall. Regarding your specific question about the relationship between inside-outside, it also gives an idea of how Valerio conceived it. In this sense, it is like a tent, because in a tent you somehow, push some fabric aside and you slide in. So, it’s a conscious decision to be either inside or outside.
The openings are more light sources and thresholds. I don’t imagine the first thing you do is to sit behind these windows and look out; it is not about being inside but feeling a bit outside. That’s not the intention at all and in any case, from the big room you don’t see very far anyway. You have to walk towards the edge where the trees stop and that’s where you see into the far.
Something else, another contradiction, attracted me to this particular place. It’s the only piece of land in the neighbourhood with so many trees, large oaks and maples, and with all the seasonal changes of spring and fall. It’s quite dramatic.
During the summer it is protected by a canopy of leaves whilst its quite open and bare in winter. The change in density, between seasons, of the surrounding trees also heightens the complexity between the interior and exterior life of the land. When leaving the house, you are not immediately exposed. What is continuous is the view, from the edge of my plot, of the Appalachian and Blue Ridge Mountains.
WHAT ROLE DO THE SURROUNDING APPALACHIAN MOUNTAINS PLAY IN THE HOUSE?
Europeans usually consider America as a young country, but if you look at the land here, you can feel how old the land really is. This is very old land – among the very oldest lands on our planet. Geologically, it’s much older than the Alps or the Himalayas. And you can feel that. The nearby river, named the New River, is the second oldest river in the world. When you come here and you’re somewhat perceptive to your surroundings, you become aware of this. You realise that you’re in an ancient land and this gives it a special feeling. This kind of landscape always makes me think of the universe, about cosmology, and where we are from, where we are going, and so on. It is rather monumental. Raw. Rough even. Not finicky at all. It is the opposite of the image we have of Arcadia – the idyllic innocence of the seemingly untroubled that is associate with the Mediterranean. The land here is not rustic at all. Particularly in the winter. In the winter the land is the best: barren, yet open. There is depth. It is like a painting by Rothko or Pollock.
It opens a world of imagination and suggests possibilities. It is an intrinsic quality of this land, and the house captures it in its form and materialization. The presence of this landscape makes me also imagine a caravan of ancient Native American tribes moving slowly across the land. Or when you would hear them chanting Ly-O-Lay Ale Loya, known as Counterclockwise Circle Dance, during a rite.
Therefore, as I told you before, I can imagine that I could load the house on a vehicle and un-pack it in the next place, fifty miles down the road, not unlike a native American nomadic tribal tent. I tell you, when you come and visit you will feel a little bit like a shaman.
THE ILLUSTRATION YOU PUBLISHED ON INSTAGRAM SHOWS THE SECTION OF A MOUNTAIN. WHAT DOES IT REPRESENT EXACTLY?
Thomas Jefferson, who wrote the Declaration of Independence, which I find the most important announcement written by anyone in the last 500 years, lived here in Virginia and discovered some of the Native Americans burial sites. He owned some of the land nearby.
In the eastern part of America, the only remnants of ancient structures are these artificial mounds. There is nothing else left of the ancient tribes that lived here for I don’t know how many thousands of years. I posted it because the illustration somehow summarises a lot of inspirations that are woven into this house. However, it is not about emulating anything, it is not about the past, not about some story-telling. It is not about history or something. If you want to read anything into it at all, it would be more about the exact opposite: things beyond history and time. It is more about the timeless and living in a place with no time. No measuring. A certain kind of vastness. Liberty. Sometimes, I think it is maybe not accidental that a Virginian, who knew this land well, was capable of writing the text that would set individuals free. I think I get to live in a very liberating building.
06.03.2021
马克斯·布赖特施密德: 我记得瓦列里奥·奥尔加蒂(Valerio Olgiati)在他的一次演讲中说 “我有一个客户,他想成为无家可归的人”。我相信他指的是我。我喜欢改变居住的地点,尤其欣赏游牧民族的品质,不太依附于一个国家或地区。我离开了欧洲,拥抱在美国的生活。但因为我每年仍会花四个月左右的时间在欧洲,所以我非常小心,不让我在欧洲和美国的生活混为一体。我试图保持每个地方的生活节奏和生活仪式之间有所区别。瓦列里奥知道这一切。因此,当我有了在美国建造住宅的想法时,由他来担任建筑师是一个自然的选择。马纳霍克之家(Manahoac House)是我们一起工作的延续。建造一座建筑与写书或采访比起来,显然是不同的事业,但在某种程度上,也可视为另一个章节的写作。我认为我们都成长了,或者至少,就我自己而言,由于我与瓦列里奥的长期关系,我对建筑的理解也在不断加深。如果你读一下我们出版的书,看看他做的建筑,你可以看到思想的不断演变。
你最初的梦想是什么?你是如何向瓦列里奥表达你的愿望的?
我给了他一个预算并告诉他可以做任何他想象的事情。唯一的条件是,我有东西要储存,而且我需要一个厨房来做饭。但除此以外,我给了他完全的自由。
这对我来说有点宿命论,但我总是采取这种立场。你不能要求一个非常好的建筑师来建造一栋建筑,然后告诉他该怎么做。如果你想规定一所房子应该是什么样的,那就找一个平庸的建筑师。
这座房子基本上有三个主要元素——平台、A型框架和圆柱体。你如何描述占据房子中心的圆柱体的品质?
有两个主要的价值。很明显,功利性方面--它必须是一个功能性的房子。所有需要储存的东西都在圆柱体里。
然而,主要的价值在于创造空间。事实上,圆柱体在平面上从中心移开,将空间结构分成几个鲜明的区域。推拉窗所在的房间正面将有33英尺高(约11米),而在其他地方则一直变矮趋近于零。同时,圆柱体的位置使房间在斜顶处仅有四英尺(1.2米)宽,这种紧密程度形成了强大的门洞感,而不需要门或框架。从圆筒的一侧到另一侧,你穿过高大的主窗前的海峡,到达一个小袋子。这是最受保护的空间,出于原始的本能,你自然会在这里睡觉。它有一种洞穴般的质量,得益于圆柱体的位置,随着你的深入,一切都变得更加封闭,并溶入黑暗。那里完全没有窗户。
在另一边,也就是我可能工作的地方,你有同样的空间划分,但有一个七米长的窗户切入屋顶,光线由此进入,如果愿意,你可以透过它看到外面的树。这是一个简单得令人难以置信的住宅,但因关注于空间被如何塑造和照亮,它成为了一个极其不同而丰富的空间。
如果圆柱体居中,这将会成为一个完全不同,更贫乏,更可预测的空间。瓦列里奥通过简单地将圆柱体和A型框架以一种非常精确的方式结合起来,设计出了非常复杂的事物。我不知道这些空间之间的边界到底会在哪里。你可以试着按照我解释的方式来想象。你可以把它们看作是一种门洞,但当然,没有真正的门或门楣或任何这些通常在制造房间时出现的东西。
在圆柱体内部,我们将使用最传统的石膏板,涂成白色,由非常明亮的LED灯照亮。当你从车库进入房子,或从宏伟的昏暗空间离开时,你会进入这种类似实验室的空间。一个钢制的楼梯将带你到阁楼上。那里会有一个功能性的金属水槽,大冰箱,冰柜,洗衣机和烘干机,以及一些柜子。尽管这些都是居家用品,但我们将尽量不以 “家庭 “的方式将它们具体化,并努力使圆筒内的东西和我所说的邪典空间之间的区别尽可能强烈。
在看过图纸后,冲击到我们的是每种类型都使用了一个元素:一个水平窗,一个门,一个天窗,一个圆筒和一个A型框架。后来在这个系统中出现了一个例外,现在有了两个天窗。我们想知道并好奇的是,当一个建筑由单一的元素组成时,在空间上会出现些什么?
这是一个有趣的问题;单一的元素的构成对一个建筑有什么影响?
这方面的一个很好的参照物是兰德夸特的报告厅(the Plantahof auditorium in Landquart)。
当你去那里,看到所有这些结构件,梁、柱等等,你几乎认为这是一种装饰,因为只出现了一次,而且看起来好像以某种方式相连。如果你没有四处走走,而是直接进入,你就无法理解这座建筑的逻辑。例如你看到一堆柱子,那你会说,好吧,这就是结构。但在这种情况下,所有的元素都是独一无二的,有斜下来的柱子,有撑起屋顶的梁。你必须在脑海中把它们全部拼凑起来。你走到外面,看到了柱子、墙、屋顶,慢慢地你就能把一切联系起来。你理解到,为了保持它的品质,它实际上不可能以任何其他方式建造,因为尺寸和距离都太大了。
在马纳霍克之家里,一开始可能看起来是一些单一的元素的叠加。在现实中,它正好相反。它是一个确实无法表现为建筑的有机体,不能以任何其他方式保存其空间质量。在兰德夸特,它由对结构的极端使用成就。在这所房子里,结构不是创造空间的主要元素。圆柱体没有以任何方式参与支撑A型框架。在这里,我们更多谈论的是实体和空隙的体积,它将不同的互补空间结合在一起,并创造了一个有机体,如果任何部分被移除或增加,它就不会工作。这是瓦列里奥对建筑空间的掌握:用如此基本的东西做出如此复杂的空间和气氛。
关于你所说的游牧民族的特质,你的意图是让住宅具有帐篷的特征吗?
我不认为它只是一个帐篷。它也是一座寺庙。它是一个“帐篷寺庙”—— 我意识到这是一个矛盾。这个想法是,住宅永远在那里,但它也可以搬到其他地方。让这两个极端呈现并共存是很重要的。
三角形站在一个平台上略微抬高,周围有巨大的、生长着的树木。混凝土不久就会被苔藓覆盖,并长出一种铜锈。很快的,它将看起来像超越时间的事物。然而,有了这样一个抽象物体的形状,铜绿就会成为一种乍看起来不匹配的东西。房子本身将会是钢架构筑物,覆盖着波纹钢板,内外都是手工涂的炭黑色。当你靠近它时,你会发现它有一种帐篷般脆弱的品质。一个具有临时性并快速建造的事物。但从远处看,它将更多地呈现为树丛中的一座寺庙。
我们希望它像一座寺庙,因此我们不希望它在任何方面有居家的感觉。在这个大而高的空间里,唯一能参照住宅的东西就是厨房的水龙头。水的流出,意味着有人在这里度过了时间,仅此而已。
你说这座住宅的设计有着不想居家化的雄心。为什么一个不惬意的住宅对你很重要?
我可以想象,并觉得有趣的是,以不同的方式使用这个建筑,而不总是作为一个居住的地方。惬意的住宅不是那么容易转变为其他东西。惬意的住宅也不是一个能激发我想象力到一定规模和程度的地方。我不反对在适当的地点和时间的舒适感,但我们在许多住宅里看到的这种典型的舒适感对我来说太封闭和限制了。
对我来说,重要的是这些房间有一个文化维度,在一周中的任何一天都能转变为公共空间、研究中心、展厅或音乐厅。我有个朋友是个钢琴演奏家,我们已经在计划一场大约200人的音乐会。
如果我有时不得不在酒店租一个房间住一个星期,因为别人在使用这栋楼,我也不介意。或者我就睡在其中,无论里面发生任何事情。
我们不叫它布赖特施密德之家(Breitschmid House),而叫马纳霍克之家,这一点非常重要。我们这样做是为了让大多数人不知道它是干什么的。不把人与建筑联系起来是有意为之。我们也应该谨慎地称它为住宅,因为我确信它不是传统意义上的真正的住宅。我把它看作是一种文化构筑物。
让我们来谈谈材料。阅读 “非参照性建筑 “中关于一种材料的原则的章节,以及后来看到这所房子,用波纹钢板、混凝土和沥青,引发了一些额外的问题。所有东西都有一个黑色的阴影,这是否有助于建筑的材料一致性?
在美国,有前院和后院的文化,因此这往往是两个完全不同的世界。人们通常照顾前院,因为对外面的外观很重要。当然,我们对这个不感兴趣。从大街上,你开到一个覆盖着沥青的平台上。瓦列里奥希望的沥青的多孔性对室内来说并不适用。因此,基本上有两种地板材料。房子里的地板是一种有点粗糙的、非常暗的、炭黑色的混凝土。材质化的目的是在可行的方法和材料的属性间产生足够的疏远效果。重要的是,建筑被呈现为一个形式的概念,优先所有其他方式。
我认为对于这个特殊的建筑和它的特点来说,材料是正确的,尽管奥尔加蒂可能更愿意用混凝土来做所有的事情——这是我不能承受的。平台是属于地球的东西。然后你把薄的、几乎像织物一样的金属板放在上面。建筑物本身,即三角形,都是用金属制成的,除了窗户。
以类似的元素构成方式,这座住宅是一个非常封闭的不透明物体,明确地将空间划分为内部和外部区域。也有着非常大的窗户。这样的话室内外之间的关系将是怎样的?
推拉窗并不一直延伸到平台上。会有大约20厘米的立柱。当你在里面,也就是厨房柜台所在的地方,打开窗户,你就跨过了一个门洞。尽管有一个大窗户,你可以向外看,但它更像是墙的一部分。关于你的具体问题,即室内外之间的关系,这也让我们了解到瓦列里奥是如何构思的。在这个意义上,它就像一个帐篷,因为在一个帐篷里,你不知觉中把一些布料推到一边,你就钻进去了。所以,这是一个有意识的决定,要么在里面要么在外面。
这些开口更多是光源和门洞。我不认为你会做的第一件事是坐在这些窗户后面向外看;这不是关乎于人在室内而感到一点身处室外。这绝对不是意图所在,而且无论如何,从大房间里你也看不到很远。你必须走到树木停止的边缘,那是你看到远方的地方。
还有一些东西,另一个矛盾,吸引我来到这个特殊的地方。这是附近唯一一块有这么多树的土地,巨大的橡树和枫树,有着春秋两季的所有季节性变化。这是相当戏剧性的。
在夏季,它受到树冠的保护,而在冬季则是相当开放和裸露的。四季之间,周围树木的密度变化也加剧了土地内部和外部生活的复杂性。当离开房子时,你不会立即暴露在外面。连续的是视线,从我的地块边缘,到阿巴拉契亚山脉和蓝岭山脉。
周围的阿巴拉契亚山脉在这所座住宅中扮演了什么角色?
欧洲人通常认为美国是一个年轻的国家,但如果你看一下这里的土地,你就能感觉到它到底有多古老。这是一片非常远古的土地——属于我们星球上最古老的土地之一。在地质学上,它比阿尔卑斯山或喜马拉雅山还要久远。而且你可以感觉到这一点。附近的河流,名为新河,是世界上第二古老的河流。当你来到这里,对周围的环境有一定的感知能力后,你就会察觉到这一点。你会意识到自己是在一片古老的土地上,这带给它一种特殊的感觉。这种景观总是让我想到宇宙,想到宇宙学,想到我们从何而来,又去向何方,等等。它是相当纪念性的,原始,甚至粗糙。完全不精细。它与我们对阿卡迪亚的印象截然相反——无忧的田园诗般的纯真,让人联想到地中海。这里的土地毫不乡野。特别是在冬天。冬天这片土地是最好的:荒芜,但又开放。这有其深度。它就像罗斯科(Rothko)或波洛克(Pollock)的画作。
它打开了一个想象的世界,暗示了各种可能性。这是这片土地的内在品质,而这座住宅在形式和物化上抓住了它。这种景观的存在也使我想象到古代美洲原住民部落的大篷车在这片土地上缓缓移动。或者当你听到他们在祭典上吟唱《Ly-O-Lay Ale Loya》,也被称为《逆时针环形舞》。
因此,正如我之前告诉你的那样,我可以想象,我可以把住宅装到车上,然后在下一个地方,五十英里远的路上把它卸下来,这和美国本土游牧部落的帐篷没有什么区别。我可以说,当你来参观时,你会觉得有点像一个巫觋。
你在Instagram上发表的插图展示了一座山的截面。它到底代表什么?
托马斯-杰斐逊写了《独立宣言》,我认为这是过去500年,所有人中写的最重要的公告,他曾在弗吉尼亚州居住,并发现了一些美国原住民的埋葬地。他还拥有附近的一些土地。
在美国东部地区,古代建筑的唯一遗迹是这些人工土丘。在这里生活了不知道多少万年的古代部落没有留下其他东西。我把它贴出来是因为这幅插图在某种程度上概括了交织在这所房子里的很多灵感。然而,这并不关乎于要模仿什么,不关乎于过去,也不关乎于故事的讲述。它不关乎于历史或什么的。如果你想在其中读出一些东西,那更多地是完全相反的事物:超越历史和时间的事物。它更多地是关于永恒和生活在一个没有时间的地方。没有测量,某种广袤的境界,自由。有时,我想,一个熟悉这片土地的弗吉尼亚人能够写出让个人获得自由的文字,这也许不是偶然的。我想我能住在一个非常自由的建筑里。
2021年3月6日
マルクス・ブライトシュミッド: ヴァレリオ・オルジアティがあるレクチャーで、「私のクライアントで、ホームレスになりたがっているやつがいるんだ」と言っていたのを覚えています。私のことだと思っていますが。私は住む場所を変えるのが好きですし、とりわけ一つの国や地域にあまり執着しすぎない遊牧民的な性質は、おもしろいと思っています。ヨーロッパを離れて、アメリカに住むこととしたのですが、今でも年に4ヶ月はヨーロッパに滞在しているので、ヨーロッパとアメリカでの生活が混同しないように気をつけているのです。生活のリズムや習慣がそれぞれの場所で全く違うものになるようにね。ヴァレリオはそのようなことを全て理解していますし、アメリカに家を建てるというアイデアを思いついた時には、彼が建築家となることは自然な選択でした。マナホーク・ハウスは、私たちが共に仕事をする延長線上にあるのです。建物を作ることは、本を書いたりインタビューを受けたりすることとは明らかに違う仕事ですが、ある意味では、一つの区切りだと思っているのです。私たちはお互い成長したと思いますし、少なくとも私自身は、ヴァレリオとの長い付き合いのおかげで、建築に対する理解が深まったと思っているのです。私たちの出版した本を読んでいただき、彼の作った建築を見てもらえれば、思考の継続的な進化がわかってもらえると思います。
家を建てる上での当初の夢は何でしたか?どのようにヴァレリオに要望を伝えたのですか?
予算を与えて、それで想像できることは何でもやっていいと彼には言いました。唯一の条件は、収納があることと、料理をするためのキッチンが必要だということ。それ以外は、完全に自由としました。
私の立場として、これは少し宿命的でもあると思うのですが、常にそうした立場をとっていたのです。優秀な建築家に建物を建ててくれと頼みながら、指示することなどできませんよね。家がどうあるべきか指示したいのであれば、凡庸な建築家に頼むべきでしょう。
この家には、三つの主要な要素がありますよね - プラットフォーム、Aフレーム、そしてシリンダー。家の中心を占めているシリンダー状のボリュームの特徴に関しては、どのように表現されますか?
主には二つの価値があります。明らかなことですが、実利的な側面 - 機能的な家でなければならない、ということ。ストックしておくべきものは全部シリンダーの中に入ります。
しかし一番の価値はといえば、空間が作られている、ということですね。シリンダーが平面上で中心からずれているということが、空間をいくつかの非常に明確な領域へと構造化しているのです。スライディングウィンドウのある部屋の正面では高さが33フィート(約11m)にもなりますが、その一方で、別のところでは高さがゼロまで下がってくるのです。同時に、シリンダーの位置によっては、部屋の幅がわずか4フィート(1.2m)になるのです。ギュッと絞られたところでは、狭さによってドアやフレームがなくとも敷居が形成されるのです。シリンダーの端からもう一方の端へと移動していくと、背の高いメインウィンドウの前を渡っていき、小さなポケット状の空間へとたどり着きます。ここは最も守られた空間で、原始的な本能のためか、自然と眠りにつくことができるのです。洞窟のような特徴がありますし、シリンダーの配置のおかげで、奥へといくほどに全てが閉ざされて暗闇に溶けていくのです。窓は一切ありません。
ここと反対側の場所には、私はそこで仕事をするのかもしれないのですが、同じ図式の空間がありますね。ただ、こっちは7mもの窓が屋根から切り取られていて、光が差し込み、見ようと思えば、木々を眺めることもできるのです。信じられないほどにシンプルな家なのですが、どのように空間が作られるのか、どうやってその空間が照らされるのか、に対して注意深く意識が向いていて、全然他とは違った、それでいて豊かな空間になっているのです。
シリンダーが中央に配置されていたら、まったく違っていただろうし、もっと貧相で予測可能な空間になっていたでしょうね。ヴァレリオは、シリンダーとAフレームをとても正確な方法でシンプルに組み合わせながら、非常に複雑なものをデザインしたのです。これらの空間の境界線が一体どこになるのかは、正確にはわかっていません。私が説明した方法で想像してみてください。境界線をある種の敷居だと考えることもできるのですが、もちろん本当のドアやまぐさ、あるいは部屋を作る時に普通必要とするようなものは一切ないのです。
シリンダーの内部は、最も一般的な乾式の壁を白く塗装し、かなり明るいLEDライトで照明する予定です。ガレージから家に入るとき、あるいは大広間から出る時には、このような実験室のような空間に入るのです。スチールの階段は屋根裏につながる予定です。それに実用的な金属のシンク、大型冷蔵庫、冷凍庫、洗濯機、乾燥機、いくつかのキャビネットなどが置かれるでしょう。これらは全て家庭的なオブジェクトですが、「家庭的な」方法では具現化せずに、シリンダーの中にあるもの、そしてカルトスペース、私がそう呼んでいるのですが、との差別化をできるだけ強く保つようにしているのです。
図面を見ていて印象的だったのは、それぞれの種類の要素が一つずつ使われていることです。つまり、一つの水平窓、一つのドア、一つの天窓、一つのシリンダー、そして一つのAフレーム。後にこのシステムでは例外が発生し、天窓が二つとなっていますよね。疑問に思っていたのでお聞きしたいのですが、建物が単一の要素の組み合わせで構成されると、空間的にはどういったことが生じるのでしょうか。
いい質問ですね。単一の要素が建物の構成に与える影響とは何か?
その点に関して参考になるのは、ランドクアルトのプランタホフ農業学校の講堂でしょうか。
そこへ行くと、梁や柱などの構造的なパーツが全て目に入ってきますが、それらはほとんど、装飾のように思えますよね。なぜなら、そこにあるだけでまるで取ってつけたように見えるからです。歩き回らずに、ただ中に入るだけでは、この建物のロジックは理解することできません。人は、柱が集まっているのが見えると、はいはい、これが構造でしょう、と言うと思います。ただ、プランタホフの場合は、全ての要素が個性的なのです。倒れかかる斜めの柱や、屋根を支える梁。それらを頭の中で縫い合わせていく必要があるのです。外へ出て、柱を見て、壁を見て、それから屋根を見て、そしてゆっくりと全てを繋ぎ合わせることができるのです。建物のこのクオリティを維持するには、他の方法では建てられなかったことが理解できると思いますよ。普通の建て方では、規模と距離が大きすぎますからね。
マナホーク・ハウスにおいては、一見して単一の要素を寄せ集めたように見えるかもしれません。実際には、まさにその逆なのですけどね。別の方法では、建物として機能させたり、空間的な質を保つことができないような有機体なのです。ランドクアルトでは、構造を過激に使うことで、有機体が形成されています。ただ、この家においては、構造が空間を作るメインの要素ではなく、シリンダーは、Aフレームを構造的に支えることには一切関係ないのです。それよりも、ここでは様々な補完的空間を結びつける、ソリッドなボリューム、ヴォイドなボリュームについて、たくさん話し合ったのです。それは、どこかのパーツが取り除かれたり、追加されたりすると機能しないような有機体を作っているのです。これらは、ヴァレリオの建築的空間に対する熟練の技によってなされることです。 すごく基本的な事から、空間的にも雰囲気的にも複雑なものを作り出すという技術ですよね。
先ほどお話しされた遊牧的性質に関連することですが、この家にテントのような特徴が与えられているのは、あなたが意図されたことなのですか?
私は、この家をただのテントだとは思ってないのですよ。神殿でもあるのです。テント-テンプルですかね - 矛盾していると思いますが。考えとしては、この家は永遠にそこにありつつも、どこか別の場所へと移動することもできる、ということですかね。この二つの極端な状態を共存させることがとても重要でした。
この三角形の家は、周辺の大きく木々の育つ台地からは少し高いところに位置しています。コンクリートはやがて苔に覆われたり、緑青がつくでしょう。あっという間に時間を超えたようなものになるでしょうね。ただ、このような抽象的な形をしているので、ぱっと見では、緑青とは似合わないと思いますが。家自体は、鉄骨造です。波型鋼板で覆い、内部と外部には手作業で無煙炭色の塗装がなされる予定です。近づくと、テントのようなフラジャイルな質がわかるでしょう。テンポラリーで、素早く作られたようなね。でも、遠くから見ると、木々の中の神殿として見えてくるでしょう。
神殿のように感じてもらうためにも家庭的な雰囲気は一切出したくないのです。大きく、背の高い空間の中で、家に関係するものと言えば、キッチンの蛇口くらいですかね。水が出るということは、つまり誰かがここで時を過ごしているということです。それ以上は、何もありません。
この家は、家庭的であるべきではない、という野心で設計がなされていますが、なぜ、あなたにとっては居心地の良い家でないことが重要なのでしょうか?
この建物を様々な方法で使用することは想像できますし、おもしろいと思うのです。常に住む場所としてだけではなくてね。居心地の良い家は、そう簡単には別のものには変えられません。それに居心地の良い家というのは、ある一定の規模や大きさのある事を想像させるような場所ではなないのです。適切な場所や時間における居心地の良さに反対するわけではないのですが、多くの家に見られるこの典型的な居心地の良さが、私にとってはあまりに窮屈で、束縛されてしまうのです。
これらの部屋が、パブリックスペースや、リサーチセンター、展示室、そしてコンサートホールへと一週間の内に何日でも変われることが、私にとっては重要なのです。友人にピアノ演奏者がいるのですが、すでに200人規模のコンサートを開くことも考えているのですよ。
誰かがこの建物を使う代わりに、一週間くらいホテルの部屋を借りなくてはいけなくなったとしても気にしません。もしくは中で何かが行われていたとしても、そこで寝るだけです。
ブライトシュミッド・ハウスとは呼ばずに、マナホーク・ハウスと呼ぶこともとても重要です。そうすることで、ほとんどの人は、それが何のことなのかわからないでしょう。建物に特定の人の名前をつけないのは意図的です。それに、家と呼ぶことにも注意が必要です。というのも、普通の意味での家ではないと思っていますから。むしろある種の文化的人工物として考えています。
素材の話をしましょう。「ノンレファレンシャル・アーキテクチャー」の「単一素材の原則」の章を読んだ後に、波板鋼板とコンクリート、そしてアスファルトでできたこの家を見ることで、いくつかの疑問が湧いてきました。全ての素材に黒い影が落ちることが、建物の素材の一貫性に貢献しているということでしょうか?
アメリカでは、前庭と後庭の文化があって、つまり二つの全く異なる世界が存在することとなるのです。人々が普通、前庭を大切にするのは、外からの見た目が重要だからですよね。もちろん我々はそんなことには興味がないので、車道からは、アスファルトのプラットフォームへと直接乗り入れるのです。ヴァレリオがやりたかった多孔質のアスファルトは内部ではうまく機能しませんよ。だから基本的には床材は二つとなりました。家の内部の床材は、ラフでとても暗い、無煙炭色のコンクリートです。素材を具現化していく目的は、素材の属性とできる方法を用いて、十分な異化作用を作り出すことにあるのです。大事なことは、他のあらゆる手段に先んじて建物が形式的なアイデアとして存在することです。
この特殊な建物とその性格から、これらの素材は適切だったと思っているのです。オルジアティはたぶん全てをコンクリートで作りたかったと思いますが - 私にはどうもその余裕がなくてね。プラットフォームは地球に属するものです。その上に、薄くてほとんど布のような金属の板を設置する。建物自体は三角形で、すベて金属。窓以外はね。
同じように要素還元的な手法によって、この家は、閉じた不透明なオブジェクトとして内部と外部を明確に分けていると思います。また非常に大きな窓もありますね。内部と外部との関係はどういったものになるのでしょうか?
スライディングウィンドウはプラットフォームまでは降りて来ずに、20センチほどの立ち上がりが来る予定です。家の中のキッチンカウンターの場所では、窓を開けると、敷居をまたぐことになるのです。大きな窓があるのですが、外を眺めているときは、それは窓というよりもやはり壁の一部なのです。内部-外部の関係についてのあなた方の具体的な質問に関してですが、ヴァレリオがどう捉えていたかを考えるきっかけとなりますね。その意味では、これはテントのようなものでしょう。テントでは、どうにかこうにか布をわきに押したりして、中に滑り込んで行きますよね。つまり中に入るか外にいるかは意識的に決めることなのです。
開口部は、光源でもあって、境界線でもあるのです。これらの窓を背にして、まずは外を見渡そうとは思いませんよね。中にいる、というわけでもなく、少しだけ外を感じるという状態のことですが。いずれにせよ、それは意図していることではないですし、大きな部屋からはそんなに遠くまで見渡すことはできません。木々の続く末端まで歩いていって、そこから遠くを見ない限りは。
その他にも、別の矛盾があったりして、私はこの特別な場所に惹きつけられているのです。この土地は、近隣の中でも、たくさんの木々の育つ唯一の土地で、大きなオークの木やカエデの木があるので、春や秋、全ての季節の変化を感じることができますよ。とてもドラマチックです。
夏の間は、この家は葉っぱのキャノピーに守られているのですが、その一方で、冬はかなり開いてしまって剥き出しになってしまいます。季節ごとに周囲の木々の密度が変化することで、この土地での内-外間の生活の複雑さが強調されるのです。家から出てもすぐには外へと晒されるわけではないのです。それにアパラチア山脈とブルー・リッジ山脈の景色が連続的に広がっているのですよ。
この家において、アパラチア山脈の環境というものは、どのような役割を果たしているのでしょうか?
ヨーロッパの人たちは、アメリカを若い国だと思っていますが、この土地を見ていただければ、いかにここが古いものかわかるでしょう。かなり古いのですよ - だって我々の地球上で最も古い土地の一つですから。地質学的には、アルプス山脈やヒマラヤ山脈よりもずっと古いですし、そう感じられると思います。近くにある川は、ニューリバーという名前なのですが、世界で二番目に古い川なのです。ここに来て、いくらか周囲の状況を把握できるようなると、そのことに気付きますよ。古代の土地にいることを実感して、それが特別な感覚を与えてくれるのです。このような風景を見ていると、世界のことや宇宙論、そして私たちがどこから来てどこへ行くのか、などを考えさせられます。モニュメンタルなことですね。生々しくて、荒々しくもあるような。気難しいような細かさは全くなくて。私たちが抱くようなアルカディアのイメージとは真逆です - 地中海から連想されるような、うわべだけの牧歌的な無邪気さとはね。この土地は全く粗野なところではなく、特に冬はそうですね。冬にはこの土地は最高なのです。不毛だけど、開放的で。奥行きがある。ロスコやポロックの絵画のようですね。
イマジネーションの世界を広げて、可能性を示唆してくれる。それはこの土地の本質的な性質ですし、この家はその形態とその素材によってそのことを摑んでいるのです。この風景の存在は、古代のネイティブアメリカンの部族がゆったりと土地を移動するキャラバンを想像させるのです。儀式での反時計周りの輪舞「Ly-O-Lay Ale Loya」を唱えているのを聞いたりするとね。
だからね、さっき言ったように、この家を車に積んで50マイル先の次の場所で降ろしたりして、ほらネイティブアメリカンの遊牧民のテントとそう変わらないなと、想像できるでしょう。いやほんとに、この家に来てみたら、シャーマンになった気分になると思いますよ。
インスタグラムで公開されたイラストには山の断面が描かれていましたね。これは一体何を表しているのでしょうか?
トーマス・ジェファーソン、私が過去500年で最も重要な声明文だと考えている、あの独立宣言を書いた彼は、ヴァージニア州に住んでいて、この近くにネイティブ・アメリカンの埋葬地があることを発見したのです。彼はこの近くに土地も所有していました。
アメリカの東部で、古代建築物の名残はといえば、これらの人工的なマウンドだけですね。何千年もの間かわかりませんが、ここに住んでいた古代部族の痕跡は何も残っていません。そのイラストを投稿したのは、この家に編み込まれたたくさんのインスピレーションが何となくですが、集約されていたからです。ただ何かを真似ているのではないし、過去のことでもなく、何かの物語でもないのです。歴史とかそういうことでもありません。少しでも何かを読みとろうとされるのであれば、それは正反対のことでしょうね。歴史や時間を超えたものだと思います。それはもっと時間を超越したもので、時間の存在しない場所で生きるということです。測ることのできないね。ある種の広大さ。自由。この土地のことを熟知したヴァージニア人が、個人に自由を与えるための文章を書けたことは、たぶん偶然ではないだろうと思う時があるのです。私も、とても自由な建物に住めるのだろうと思っていますよ。
2021年3月6日
Markus Breitschmid: I remember Valerio Olgiati saying in one of his lectures: „I have a client who wants to be homeless”. I believe he was referring to me. I like changing the places where I live, and I especially appreciate the nomadic quality of not being attached too much to one country or territory. I left Europe behind and embraced living in America. Because I am still spending around four months in Europe every year, I’m very careful not to let my lives in Europe and in America conflate into one. I try to keep the rhythms of life and the rituals of life of each place quite different from each other. Valerio knows all of that. So, when I came up with the idea to build a house in America, it was a natural choice that he would be the architect. The Manahoac House is a continuation of our work together. Making a building is obviously a different kind of undertaking than writing a book or making an interview, but in a way, I see it as another chapter. I think we have both grown or, at least, speaking for myself, my understanding of architecture has grown thanks to my long relationship with Valerio. If you read the books we have published, and look at the architecture he has made, you can see a continuous evolution of thought.
WHAT WAS YOUR INITIAL DREAM? HOW DID YOU EXPRESS TO VALERIO WHAT YOU WANTED?
I gave him a budget and I said that he could do whatever he imagined. The only condition was that I have things to store, and I need a kitchen to cook in. But other than that, I gave him complete freedom. It is a little fatalistic on my part, but I always took the position: You cannot ask a very good architect to build a building and then tell him what to do. If you want to dictate how a house should be like, get a mediocre architect.
THE HOUSE HAS ESSENTIALLY THREE MAIN ELEMENTS - THE PLATFORM, THE A-FRAME AND THE CYLINDER. HOW WOULD YOU DESCRIBE THE QUALITY OF THE CYLINDRICAL VOLUME THAT OCCUPIES THE CENTRE OF THE HOUSE?
There are two main values. Obviously, the utilitarian aspect - it has to be a functional house. Everything that needs to be stored goes in the cylinder.
The main quality, however, is the space-making one. The fact that the cylinder is moved off centre in plan, structures the space into several very distinct areas. The front face of the room where the sliding window is, will be thirty-three feet tall (around 11 m), whilst at other points it goes all the way down to zero. At the same time the position of the cylinder brings the room to just four feet (1.2 m) wide, at the pinch points, a closeness that forms strong thresholds, without the need of doors or frames. Passing from one side of the cylinder to the other, you cross the strait in front of the tall main window and arrive at a small pocket. This is the most protected space, where out of primal instinct, you naturally go to sleep. It has a cave-like quality, and thanks to the position of the cylinder, as you go deeper, everything becomes more enclosed and dissolves into darkness. There are no windows at all.
On the other side, where I might work, you have the same delineation of space, but there is a seven-meter-long window cut into the roof, through which light enters, and, if you want to, through which you can look out at the trees. It’s an unbelievably simple house, but by being attentive to how space is formed and the way it will be illuminated, it becomes an extremely differentiated and rich space.
If the cylinder was in the middle, this would be a completely different, much poorer, and more predictable space. Valerio designed something very complex by simply combining a cylinder with an A-frame in a very precise way. I don’t know exactly where the boundaries between these spaces will be. You can try to imagine it the way I explain it. You could think of them as kind of thresholds, but of course, there are no real doors or lintels or any of those things that you typically have when you make chambers.
Inside the cylinder we will use the most conventional drywall, painted white and illuminated by very bright LED lights. When you enter the house from the garage, or leave from the grand dim space, you go into this kind of laboratory-like space. A steel staircase will take you up to the attic. There will also be a utilitarian metal sink, a large refrigerator, a freezer, a washer and dryer, and some cabinets. Even though these are all domestic objects, we will try not to materialize them in a ‘homely’ way, and work on keeping the differentiation between what is inside the cylinder and what is the cult space, as I call it, as strong as possible.
HAVING SEEN THE DRAWINGS, WHAT STRUCK US WAS THE USE OF ONE ELEMENT OF EACH TYPE: ONE HORIZONTAL WINDOW, ONE DOOR, ONE SKYLIGHT, ONE CYLINDER AND ONE A-FRAME. LATER AN EXCEPTION OCCURRED IN THIS SYSTEM, YOU HAVE NOW TWO SKYLIGHTS. WE WERE WONDERING AND WANTED TO ASK YOU, WHAT IS PRODUCED SPATIALLY WHEN A BUILDING IS COMPOSED OF SINGULAR ELEMENTS PUT TOGETHER?
It’s an interesting question; what is the effect of a singular element on the composition of a building?
A good reference in that regard would be the Plantahof auditorium in Landquart.
When you go there and you see all these structural pieces, the beam, the column and so on, you almost think it is a kind of a decoration because it’s only there once and it looks as if it was somehow attached. If you don’t walk around and you just go inside, you cannot understand the logic of the building. If you saw a bunch of columns, you would say, ok, it’s the structure. But in this case, all the elements are unique, there is the slanted column coming down and the beam holding up the roof. You have to stitch them all together in your head. You go outside, you see the column, you see the walls, you see the roof and slowly you are able to connect everything. You understand that in order to keep its qualities, it actually couldn’t have been built in any other way, because the dimensions and distances were too big.
In the Manahoac House, it might look like an addition of singular elements at first. In reality, it’s exactly the opposite. It’s an organism that really couldn’t perform as a building and preserve its spatial qualities in any other way. In Landquart, it is given by an extreme use of structure. In this house, structure is not the main space-making element. The cylinder doesn’t participate in any way to hold up the A-frame. Here we speak more about volumes of solid and void that bind diverse complementary spaces together and creates an organism that wouldn’t work if any part was removed or added. It is Valerio’s mastery of architectonic space: to make something so spatially and atmospherically complex out of something so basic.
IN RELATION TO THE NOMADIC QUALITIES, YOU SPOKE ABOUT, WAS IT YOUR INTENTION TO GIVE THE HOUSE THE CHARACTER OF A TENT?
I don’t see it as just a tent. It’s also a temple. It’s a tent-temple – which I realise is a contradiction. The idea is that the house has been there forever, but also that it could move somewhere else. It was very important to let these two extremes be present and co-exist.
The triangle stands slightly elevated on a platform with large, grown trees around it. The concrete will soon be covered with moss and grow a patina. Pretty quickly, it will look like something beyond time. Yet, having the shape of such an abstract object, the patina will be something, that at first glance, won’t match. The house itself will be a steel frame construction, coated with corrugated steel and hand-painted in anthracite color on the outside and inside. When you get close to it, you will see it has a tent-like fragile quality. Something that is temporary and has been built quickly. But then from a distance, it will present itself more as a temple among the trees.
We want it to feel like a temple and therefore we don’t want it to feel domestic in any way. In the large, tall space, the only reference to something that has to do with a house is going to be the faucet of the kitchen. Water comes out, it means that somebody spends time here, nothing more.
YOU SAID THIS HOUSE IS DESIGNED WITH AN AMBITION NOT TO BE DOMESTIC. WHY IS IT IMPORTANT TO YOU NOT TO HAVE A COZY HOUSE?
I can imagine, and I find it interesting, to use this building in different ways and not always as a place to live in. A cozy house is not so easy to transform into something else. A cozy house is also not a place that inspires me to imagine things at a certain scale and of a certain magnitude. I am not against coziness in the right place and moment but this typical sense of coziness that we see in many houses is too contained and too restricting for me.
For me it’s important that these rooms have a cultural dimension, transforming into a public space, a research center, an exhibition room, or a concert hall on any given day of the week. I have a friend who is a piano player, and we are already planning a concert for around 200 people.
I don’t mind if I sometimes have to rent a room in a hotel for a week because somebody else is using the building. Or I’ll just sleep amongst whatever is taking place inside.
The fact that we don’t call it Breitschmid House, but Manahoac House is very important. We do this so most people have no idea what it’s about. Not attaching a person to the building is intentional. We should also be careful calling it a house, as I am sure that it isn’t really a house in the conventional sense. I see it rather as a kind of cultural artifice.
LET’S TALK ABOUT MATERIALS. READING „NON-REFERENTIAL ARCHITECTURE” AND THE CHAPTER ABOUT THE PRINCIPLE OF ONE MATERIAL, AND LATER SEEING THIS HOUSE, WITH CORRUGATED STEEL, CONCRETE, AND ASPHALT, RAISES SOME ADDITIONAL QUESTIONS. DOES THE FACT THAT EVERYTHING HAS A SHADE OF BLACK CONTRIBUTE TO THE MATERIAL COHERENCE OF THE BUILDING?
In the USA, there’s the front yard and back yard culture and consequently these are often two completely different worlds. People usually take care of the front yard because the appearance towards the outside is important. Of course, we are not interested in this. From the street, you drive onto a platform covered with asphalt. The porosity that Valerio wants for the asphalt doesn’t really work for the inside. So, there are basically two floor materials. The floor inside the house is a somewhat rough, very dark, anthracite-colored concrete. The aim of the materialization is to produce a sufficient distancing-effect with the available means and attributes of materials. What’s important is that the building is present as a formal idea prior to all other ways.
I think for this particular building and its character, the materials are correct, even though Olgiati probably would have preferred to do everything in concrete – something I could not afford. The platform is what belongs to the earth. You then put thin, almost fabric-like metal sheets on top of it. The building proper, the triangle, is all made in metal, except the windows.
IN A SIMILAR ELEMENTAL WAY, THE HOUSE IS A VERY CONTAINED OPAQUE OBJECT THAT CLEARLY DIVIDES THE SPACES INTO INTERIOR AND EXTERIOR AREAS. THERE ARE ALSO VERY BIG WINDOWS. WHAT WILL THE RELATIONSHIP BETWEEN INTERIOR AND EXTERIOR BE LIKE?
The sliding window doesn’t go all the way down to the platform. There will be around a 20-centimetre upstand. When you are inside, where the kitchen counter is, and you open the window, you cross a threshold. Even though there’s a big window, and you can look out, it’s more part of the wall. Regarding your specific question about the relationship between inside-outside, it also gives an idea of how Valerio conceived it. In this sense, it is like a tent, because in a tent you somehow, push some fabric aside and you slide in. So, it’s a conscious decision to be either inside or outside.
The openings are more light sources and thresholds. I don’t imagine the first thing you do is to sit behind these windows and look out; it is not about being inside but feeling a bit outside. That’s not the intention at all and in any case, from the big room you don’t see very far anyway. You have to walk towards the edge where the trees stop and that’s where you see into the far.
Something else, another contradiction, attracted me to this particular place. It’s the only piece of land in the neighbourhood with so many trees, large oaks and maples, and with all the seasonal changes of spring and fall. It’s quite dramatic.
During the summer it is protected by a canopy of leaves whilst its quite open and bare in winter. The change in density, between seasons, of the surrounding trees also heightens the complexity between the interior and exterior life of the land. When leaving the house, you are not immediately exposed. What is continuous is the view, from the edge of my plot, of the Appalachian and Blue Ridge Mountains.
WHAT ROLE DO THE SURROUNDING APPALACHIAN MOUNTAINS PLAY IN THE HOUSE?
Europeans usually consider America as a young country, but if you look at the land here, you can feel how old the land really is. This is very old land – among the very oldest lands on our planet. Geologically, it’s much older than the Alps or the Himalayas. And you can feel that. The nearby river, named the New River, is the second oldest river in the world. When you come here and you’re somewhat perceptive to your surroundings, you become aware of this. You realise that you’re in an ancient land and this gives it a special feeling. This kind of landscape always makes me think of the universe, about cosmology, and where we are from, where we are going, and so on. It is rather monumental. Raw. Rough even. Not finicky at all. It is the opposite of the image we have of Arcadia – the idyllic innocence of the seemingly untroubled that is associate with the Mediterranean. The land here is not rustic at all. Particularly in the winter. In the winter the land is the best: barren, yet open. There is depth. It is like a painting by Rothko or Pollock.
It opens a world of imagination and suggests possibilities. It is an intrinsic quality of this land, and the house captures it in its form and materialization. The presence of this landscape makes me also imagine a caravan of ancient Native American tribes moving slowly across the land. Or when you would hear them chanting Ly-O-Lay Ale Loya, known as Counterclockwise Circle Dance, during a rite.
Therefore, as I told you before, I can imagine that I could load the house on a vehicle and un-pack it in the next place, fifty miles down the road, not unlike a native American nomadic tribal tent. I tell you, when you come and visit you will feel a little bit like a shaman.
THE ILLUSTRATION YOU PUBLISHED ON INSTAGRAM SHOWS THE SECTION OF A MOUNTAIN. WHAT DOES IT REPRESENT EXACTLY?
Thomas Jefferson, who wrote the Declaration of Independence, which I find the most important announcement written by anyone in the last 500 years, lived here in Virginia and discovered some of the Native Americans burial sites. He owned some of the land nearby.
In the eastern part of America, the only remnants of ancient structures are these artificial mounds. There is nothing else left of the ancient tribes that lived here for I don’t know how many thousands of years. I posted it because the illustration somehow summarises a lot of inspirations that are woven into this house. However, it is not about emulating anything, it is not about the past, not about some story-telling. It is not about history or something. If you want to read anything into it at all, it would be more about the exact opposite: things beyond history and time. It is more about the timeless and living in a place with no time. No measuring. A certain kind of vastness. Liberty. Sometimes, I think it is maybe not accidental that a Virginian, who knew this land well, was capable of writing the text that would set individuals free. I think I get to live in a very liberating building.
06.03.2021
马克斯·布赖特施密德: 我记得瓦列里奥·奥尔加蒂(Valerio Olgiati)在他的一次演讲中说 “我有一个客户,他想成为无家可归的人”。我相信他指的是我。我喜欢改变居住的地点,尤其欣赏游牧民族的品质,不太依附于一个国家或地区。我离开了欧洲,拥抱在美国的生活。但因为我每年仍会花四个月左右的时间在欧洲,所以我非常小心,不让我在欧洲和美国的生活混为一体。我试图保持每个地方的生活节奏和生活仪式之间有所区别。瓦列里奥知道这一切。因此,当我有了在美国建造住宅的想法时,由他来担任建筑师是一个自然的选择。马纳霍克之家(Manahoac House)是我们一起工作的延续。建造一座建筑与写书或采访比起来,显然是不同的事业,但在某种程度上,也可视为另一个章节的写作。我认为我们都成长了,或者至少,就我自己而言,由于我与瓦列里奥的长期关系,我对建筑的理解也在不断加深。如果你读一下我们出版的书,看看他做的建筑,你可以看到思想的不断演变。
你最初的梦想是什么?你是如何向瓦列里奥表达你的愿望的?
我给了他一个预算并告诉他可以做任何他想象的事情。唯一的条件是,我有东西要储存,而且我需要一个厨房来做饭。但除此以外,我给了他完全的自由。
这对我来说有点宿命论,但我总是采取这种立场。你不能要求一个非常好的建筑师来建造一栋建筑,然后告诉他该怎么做。如果你想规定一所房子应该是什么样的,那就找一个平庸的建筑师。
这座房子基本上有三个主要元素——平台、A型框架和圆柱体。你如何描述占据房子中心的圆柱体的品质?
有两个主要的价值。很明显,功利性方面--它必须是一个功能性的房子。所有需要储存的东西都在圆柱体里。
然而,主要的价值在于创造空间。事实上,圆柱体在平面上从中心移开,将空间结构分成几个鲜明的区域。推拉窗所在的房间正面将有33英尺高(约11米),而在其他地方则一直变矮趋近于零。同时,圆柱体的位置使房间在斜顶处仅有四英尺(1.2米)宽,这种紧密程度形成了强大的门洞感,而不需要门或框架。从圆筒的一侧到另一侧,你穿过高大的主窗前的海峡,到达一个小袋子。这是最受保护的空间,出于原始的本能,你自然会在这里睡觉。它有一种洞穴般的质量,得益于圆柱体的位置,随着你的深入,一切都变得更加封闭,并溶入黑暗。那里完全没有窗户。
在另一边,也就是我可能工作的地方,你有同样的空间划分,但有一个七米长的窗户切入屋顶,光线由此进入,如果愿意,你可以透过它看到外面的树。这是一个简单得令人难以置信的住宅,但因关注于空间被如何塑造和照亮,它成为了一个极其不同而丰富的空间。
如果圆柱体居中,这将会成为一个完全不同,更贫乏,更可预测的空间。瓦列里奥通过简单地将圆柱体和A型框架以一种非常精确的方式结合起来,设计出了非常复杂的事物。我不知道这些空间之间的边界到底会在哪里。你可以试着按照我解释的方式来想象。你可以把它们看作是一种门洞,但当然,没有真正的门或门楣或任何这些通常在制造房间时出现的东西。
在圆柱体内部,我们将使用最传统的石膏板,涂成白色,由非常明亮的LED灯照亮。当你从车库进入房子,或从宏伟的昏暗空间离开时,你会进入这种类似实验室的空间。一个钢制的楼梯将带你到阁楼上。那里会有一个功能性的金属水槽,大冰箱,冰柜,洗衣机和烘干机,以及一些柜子。尽管这些都是居家用品,但我们将尽量不以 “家庭 “的方式将它们具体化,并努力使圆筒内的东西和我所说的邪典空间之间的区别尽可能强烈。
在看过图纸后,冲击到我们的是每种类型都使用了一个元素:一个水平窗,一个门,一个天窗,一个圆筒和一个A型框架。后来在这个系统中出现了一个例外,现在有了两个天窗。我们想知道并好奇的是,当一个建筑由单一的元素组成时,在空间上会出现些什么?
这是一个有趣的问题;单一的元素的构成对一个建筑有什么影响?
这方面的一个很好的参照物是兰德夸特的报告厅(the Plantahof auditorium in Landquart)。
当你去那里,看到所有这些结构件,梁、柱等等,你几乎认为这是一种装饰,因为只出现了一次,而且看起来好像以某种方式相连。如果你没有四处走走,而是直接进入,你就无法理解这座建筑的逻辑。例如你看到一堆柱子,那你会说,好吧,这就是结构。但在这种情况下,所有的元素都是独一无二的,有斜下来的柱子,有撑起屋顶的梁。你必须在脑海中把它们全部拼凑起来。你走到外面,看到了柱子、墙、屋顶,慢慢地你就能把一切联系起来。你理解到,为了保持它的品质,它实际上不可能以任何其他方式建造,因为尺寸和距离都太大了。
在马纳霍克之家里,一开始可能看起来是一些单一的元素的叠加。在现实中,它正好相反。它是一个确实无法表现为建筑的有机体,不能以任何其他方式保存其空间质量。在兰德夸特,它由对结构的极端使用成就。在这所房子里,结构不是创造空间的主要元素。圆柱体没有以任何方式参与支撑A型框架。在这里,我们更多谈论的是实体和空隙的体积,它将不同的互补空间结合在一起,并创造了一个有机体,如果任何部分被移除或增加,它就不会工作。这是瓦列里奥对建筑空间的掌握:用如此基本的东西做出如此复杂的空间和气氛。
关于你所说的游牧民族的特质,你的意图是让住宅具有帐篷的特征吗?
我不认为它只是一个帐篷。它也是一座寺庙。它是一个“帐篷寺庙”—— 我意识到这是一个矛盾。这个想法是,住宅永远在那里,但它也可以搬到其他地方。让这两个极端呈现并共存是很重要的。
三角形站在一个平台上略微抬高,周围有巨大的、生长着的树木。混凝土不久就会被苔藓覆盖,并长出一种铜锈。很快的,它将看起来像超越时间的事物。然而,有了这样一个抽象物体的形状,铜绿就会成为一种乍看起来不匹配的东西。房子本身将会是钢架构筑物,覆盖着波纹钢板,内外都是手工涂的炭黑色。当你靠近它时,你会发现它有一种帐篷般脆弱的品质。一个具有临时性并快速建造的事物。但从远处看,它将更多地呈现为树丛中的一座寺庙。
我们希望它像一座寺庙,因此我们不希望它在任何方面有居家的感觉。在这个大而高的空间里,唯一能参照住宅的东西就是厨房的水龙头。水的流出,意味着有人在这里度过了时间,仅此而已。
你说这座住宅的设计有着不想居家化的雄心。为什么一个不惬意的住宅对你很重要?
我可以想象,并觉得有趣的是,以不同的方式使用这个建筑,而不总是作为一个居住的地方。惬意的住宅不是那么容易转变为其他东西。惬意的住宅也不是一个能激发我想象力到一定规模和程度的地方。我不反对在适当的地点和时间的舒适感,但我们在许多住宅里看到的这种典型的舒适感对我来说太封闭和限制了。
对我来说,重要的是这些房间有一个文化维度,在一周中的任何一天都能转变为公共空间、研究中心、展厅或音乐厅。我有个朋友是个钢琴演奏家,我们已经在计划一场大约200人的音乐会。
如果我有时不得不在酒店租一个房间住一个星期,因为别人在使用这栋楼,我也不介意。或者我就睡在其中,无论里面发生任何事情。
我们不叫它布赖特施密德之家(Breitschmid House),而叫马纳霍克之家,这一点非常重要。我们这样做是为了让大多数人不知道它是干什么的。不把人与建筑联系起来是有意为之。我们也应该谨慎地称它为住宅,因为我确信它不是传统意义上的真正的住宅。我把它看作是一种文化构筑物。
让我们来谈谈材料。阅读 “非参照性建筑 “中关于一种材料的原则的章节,以及后来看到这所房子,用波纹钢板、混凝土和沥青,引发了一些额外的问题。所有东西都有一个黑色的阴影,这是否有助于建筑的材料一致性?
在美国,有前院和后院的文化,因此这往往是两个完全不同的世界。人们通常照顾前院,因为对外面的外观很重要。当然,我们对这个不感兴趣。从大街上,你开到一个覆盖着沥青的平台上。瓦列里奥希望的沥青的多孔性对室内来说并不适用。因此,基本上有两种地板材料。房子里的地板是一种有点粗糙的、非常暗的、炭黑色的混凝土。材质化的目的是在可行的方法和材料的属性间产生足够的疏远效果。重要的是,建筑被呈现为一个形式的概念,优先所有其他方式。
我认为对于这个特殊的建筑和它的特点来说,材料是正确的,尽管奥尔加蒂可能更愿意用混凝土来做所有的事情——这是我不能承受的。平台是属于地球的东西。然后你把薄的、几乎像织物一样的金属板放在上面。建筑物本身,即三角形,都是用金属制成的,除了窗户。
以类似的元素构成方式,这座住宅是一个非常封闭的不透明物体,明确地将空间划分为内部和外部区域。也有着非常大的窗户。这样的话室内外之间的关系将是怎样的?
推拉窗并不一直延伸到平台上。会有大约20厘米的立柱。当你在里面,也就是厨房柜台所在的地方,打开窗户,你就跨过了一个门洞。尽管有一个大窗户,你可以向外看,但它更像是墙的一部分。关于你的具体问题,即室内外之间的关系,这也让我们了解到瓦列里奥是如何构思的。在这个意义上,它就像一个帐篷,因为在一个帐篷里,你不知觉中把一些布料推到一边,你就钻进去了。所以,这是一个有意识的决定,要么在里面要么在外面。
这些开口更多是光源和门洞。我不认为你会做的第一件事是坐在这些窗户后面向外看;这不是关乎于人在室内而感到一点身处室外。这绝对不是意图所在,而且无论如何,从大房间里你也看不到很远。你必须走到树木停止的边缘,那是你看到远方的地方。
还有一些东西,另一个矛盾,吸引我来到这个特殊的地方。这是附近唯一一块有这么多树的土地,巨大的橡树和枫树,有着春秋两季的所有季节性变化。这是相当戏剧性的。
在夏季,它受到树冠的保护,而在冬季则是相当开放和裸露的。四季之间,周围树木的密度变化也加剧了土地内部和外部生活的复杂性。当离开房子时,你不会立即暴露在外面。连续的是视线,从我的地块边缘,到阿巴拉契亚山脉和蓝岭山脉。
周围的阿巴拉契亚山脉在这所座住宅中扮演了什么角色?
欧洲人通常认为美国是一个年轻的国家,但如果你看一下这里的土地,你就能感觉到它到底有多古老。这是一片非常远古的土地——属于我们星球上最古老的土地之一。在地质学上,它比阿尔卑斯山或喜马拉雅山还要久远。而且你可以感觉到这一点。附近的河流,名为新河,是世界上第二古老的河流。当你来到这里,对周围的环境有一定的感知能力后,你就会察觉到这一点。你会意识到自己是在一片古老的土地上,这带给它一种特殊的感觉。这种景观总是让我想到宇宙,想到宇宙学,想到我们从何而来,又去向何方,等等。它是相当纪念性的,原始,甚至粗糙。完全不精细。它与我们对阿卡迪亚的印象截然相反——无忧的田园诗般的纯真,让人联想到地中海。这里的土地毫不乡野。特别是在冬天。冬天这片土地是最好的:荒芜,但又开放。这有其深度。它就像罗斯科(Rothko)或波洛克(Pollock)的画作。
它打开了一个想象的世界,暗示了各种可能性。这是这片土地的内在品质,而这座住宅在形式和物化上抓住了它。这种景观的存在也使我想象到古代美洲原住民部落的大篷车在这片土地上缓缓移动。或者当你听到他们在祭典上吟唱《Ly-O-Lay Ale Loya》,也被称为《逆时针环形舞》。
因此,正如我之前告诉你的那样,我可以想象,我可以把住宅装到车上,然后在下一个地方,五十英里远的路上把它卸下来,这和美国本土游牧部落的帐篷没有什么区别。我可以说,当你来参观时,你会觉得有点像一个巫觋。
你在Instagram上发表的插图展示了一座山的截面。它到底代表什么?
托马斯-杰斐逊写了《独立宣言》,我认为这是过去500年,所有人中写的最重要的公告,他曾在弗吉尼亚州居住,并发现了一些美国原住民的埋葬地。他还拥有附近的一些土地。
在美国东部地区,古代建筑的唯一遗迹是这些人工土丘。在这里生活了不知道多少万年的古代部落没有留下其他东西。我把它贴出来是因为这幅插图在某种程度上概括了交织在这所房子里的很多灵感。然而,这并不关乎于要模仿什么,不关乎于过去,也不关乎于故事的讲述。它不关乎于历史或什么的。如果你想在其中读出一些东西,那更多地是完全相反的事物:超越历史和时间的事物。它更多地是关于永恒和生活在一个没有时间的地方。没有测量,某种广袤的境界,自由。有时,我想,一个熟悉这片土地的弗吉尼亚人能够写出让个人获得自由的文字,这也许不是偶然的。我想我能住在一个非常自由的建筑里。
2021年3月6日
マルクス・ブライトシュミッド: ヴァレリオ・オルジアティがあるレクチャーで、「私のクライアントで、ホームレスになりたがっているやつがいるんだ」と言っていたのを覚えています。私のことだと思っていますが。私は住む場所を変えるのが好きですし、とりわけ一つの国や地域にあまり執着しすぎない遊牧民的な性質は、おもしろいと思っています。ヨーロッパを離れて、アメリカに住むこととしたのですが、今でも年に4ヶ月はヨーロッパに滞在しているので、ヨーロッパとアメリカでの生活が混同しないように気をつけているのです。生活のリズムや習慣がそれぞれの場所で全く違うものになるようにね。ヴァレリオはそのようなことを全て理解していますし、アメリカに家を建てるというアイデアを思いついた時には、彼が建築家となることは自然な選択でした。マナホーク・ハウスは、私たちが共に仕事をする延長線上にあるのです。建物を作ることは、本を書いたりインタビューを受けたりすることとは明らかに違う仕事ですが、ある意味では、一つの区切りだと思っているのです。私たちはお互い成長したと思いますし、少なくとも私自身は、ヴァレリオとの長い付き合いのおかげで、建築に対する理解が深まったと思っているのです。私たちの出版した本を読んでいただき、彼の作った建築を見てもらえれば、思考の継続的な進化がわかってもらえると思います。
家を建てる上での当初の夢は何でしたか?どのようにヴァレリオに要望を伝えたのですか?
予算を与えて、それで想像できることは何でもやっていいと彼には言いました。唯一の条件は、収納があることと、料理をするためのキッチンが必要だということ。それ以外は、完全に自由としました。
私の立場として、これは少し宿命的でもあると思うのですが、常にそうした立場をとっていたのです。優秀な建築家に建物を建ててくれと頼みながら、指示することなどできませんよね。家がどうあるべきか指示したいのであれば、凡庸な建築家に頼むべきでしょう。
この家には、三つの主要な要素がありますよね - プラットフォーム、Aフレーム、そしてシリンダー。家の中心を占めているシリンダー状のボリュームの特徴に関しては、どのように表現されますか?
主には二つの価値があります。明らかなことですが、実利的な側面 - 機能的な家でなければならない、ということ。ストックしておくべきものは全部シリンダーの中に入ります。
しかし一番の価値はといえば、空間が作られている、ということですね。シリンダーが平面上で中心からずれているということが、空間をいくつかの非常に明確な領域へと構造化しているのです。スライディングウィンドウのある部屋の正面では高さが33フィート(約11m)にもなりますが、その一方で、別のところでは高さがゼロまで下がってくるのです。同時に、シリンダーの位置によっては、部屋の幅がわずか4フィート(1.2m)になるのです。ギュッと絞られたところでは、狭さによってドアやフレームがなくとも敷居が形成されるのです。シリンダーの端からもう一方の端へと移動していくと、背の高いメインウィンドウの前を渡っていき、小さなポケット状の空間へとたどり着きます。ここは最も守られた空間で、原始的な本能のためか、自然と眠りにつくことができるのです。洞窟のような特徴がありますし、シリンダーの配置のおかげで、奥へといくほどに全てが閉ざされて暗闇に溶けていくのです。窓は一切ありません。
ここと反対側の場所には、私はそこで仕事をするのかもしれないのですが、同じ図式の空間がありますね。ただ、こっちは7mもの窓が屋根から切り取られていて、光が差し込み、見ようと思えば、木々を眺めることもできるのです。信じられないほどにシンプルな家なのですが、どのように空間が作られるのか、どうやってその空間が照らされるのか、に対して注意深く意識が向いていて、全然他とは違った、それでいて豊かな空間になっているのです。
シリンダーが中央に配置されていたら、まったく違っていただろうし、もっと貧相で予測可能な空間になっていたでしょうね。ヴァレリオは、シリンダーとAフレームをとても正確な方法でシンプルに組み合わせながら、非常に複雑なものをデザインしたのです。これらの空間の境界線が一体どこになるのかは、正確にはわかっていません。私が説明した方法で想像してみてください。境界線をある種の敷居だと考えることもできるのですが、もちろん本当のドアやまぐさ、あるいは部屋を作る時に普通必要とするようなものは一切ないのです。
シリンダーの内部は、最も一般的な乾式の壁を白く塗装し、かなり明るいLEDライトで照明する予定です。ガレージから家に入るとき、あるいは大広間から出る時には、このような実験室のような空間に入るのです。スチールの階段は屋根裏につながる予定です。それに実用的な金属のシンク、大型冷蔵庫、冷凍庫、洗濯機、乾燥機、いくつかのキャビネットなどが置かれるでしょう。これらは全て家庭的なオブジェクトですが、「家庭的な」方法では具現化せずに、シリンダーの中にあるもの、そしてカルトスペース、私がそう呼んでいるのですが、との差別化をできるだけ強く保つようにしているのです。
図面を見ていて印象的だったのは、それぞれの種類の要素が一つずつ使われていることです。つまり、一つの水平窓、一つのドア、一つの天窓、一つのシリンダー、そして一つのAフレーム。後にこのシステムでは例外が発生し、天窓が二つとなっていますよね。疑問に思っていたのでお聞きしたいのですが、建物が単一の要素の組み合わせで構成されると、空間的にはどういったことが生じるのでしょうか。
いい質問ですね。単一の要素が建物の構成に与える影響とは何か?
その点に関して参考になるのは、ランドクアルトのプランタホフ農業学校の講堂でしょうか。
そこへ行くと、梁や柱などの構造的なパーツが全て目に入ってきますが、それらはほとんど、装飾のように思えますよね。なぜなら、そこにあるだけでまるで取ってつけたように見えるからです。歩き回らずに、ただ中に入るだけでは、この建物のロジックは理解することできません。人は、柱が集まっているのが見えると、はいはい、これが構造でしょう、と言うと思います。ただ、プランタホフの場合は、全ての要素が個性的なのです。倒れかかる斜めの柱や、屋根を支える梁。それらを頭の中で縫い合わせていく必要があるのです。外へ出て、柱を見て、壁を見て、それから屋根を見て、そしてゆっくりと全てを繋ぎ合わせることができるのです。建物のこのクオリティを維持するには、他の方法では建てられなかったことが理解できると思いますよ。普通の建て方では、規模と距離が大きすぎますからね。
マナホーク・ハウスにおいては、一見して単一の要素を寄せ集めたように見えるかもしれません。実際には、まさにその逆なのですけどね。別の方法では、建物として機能させたり、空間的な質を保つことができないような有機体なのです。ランドクアルトでは、構造を過激に使うことで、有機体が形成されています。ただ、この家においては、構造が空間を作るメインの要素ではなく、シリンダーは、Aフレームを構造的に支えることには一切関係ないのです。それよりも、ここでは様々な補完的空間を結びつける、ソリッドなボリューム、ヴォイドなボリュームについて、たくさん話し合ったのです。それは、どこかのパーツが取り除かれたり、追加されたりすると機能しないような有機体を作っているのです。これらは、ヴァレリオの建築的空間に対する熟練の技によってなされることです。 すごく基本的な事から、空間的にも雰囲気的にも複雑なものを作り出すという技術ですよね。
先ほどお話しされた遊牧的性質に関連することですが、この家にテントのような特徴が与えられているのは、あなたが意図されたことなのですか?
私は、この家をただのテントだとは思ってないのですよ。神殿でもあるのです。テント-テンプルですかね - 矛盾していると思いますが。考えとしては、この家は永遠にそこにありつつも、どこか別の場所へと移動することもできる、ということですかね。この二つの極端な状態を共存させることがとても重要でした。
この三角形の家は、周辺の大きく木々の育つ台地からは少し高いところに位置しています。コンクリートはやがて苔に覆われたり、緑青がつくでしょう。あっという間に時間を超えたようなものになるでしょうね。ただ、このような抽象的な形をしているので、ぱっと見では、緑青とは似合わないと思いますが。家自体は、鉄骨造です。波型鋼板で覆い、内部と外部には手作業で無煙炭色の塗装がなされる予定です。近づくと、テントのようなフラジャイルな質がわかるでしょう。テンポラリーで、素早く作られたようなね。でも、遠くから見ると、木々の中の神殿として見えてくるでしょう。
神殿のように感じてもらうためにも家庭的な雰囲気は一切出したくないのです。大きく、背の高い空間の中で、家に関係するものと言えば、キッチンの蛇口くらいですかね。水が出るということは、つまり誰かがここで時を過ごしているということです。それ以上は、何もありません。
この家は、家庭的であるべきではない、という野心で設計がなされていますが、なぜ、あなたにとっては居心地の良い家でないことが重要なのでしょうか?
この建物を様々な方法で使用することは想像できますし、おもしろいと思うのです。常に住む場所としてだけではなくてね。居心地の良い家は、そう簡単には別のものには変えられません。それに居心地の良い家というのは、ある一定の規模や大きさのある事を想像させるような場所ではなないのです。適切な場所や時間における居心地の良さに反対するわけではないのですが、多くの家に見られるこの典型的な居心地の良さが、私にとってはあまりに窮屈で、束縛されてしまうのです。
これらの部屋が、パブリックスペースや、リサーチセンター、展示室、そしてコンサートホールへと一週間の内に何日でも変われることが、私にとっては重要なのです。友人にピアノ演奏者がいるのですが、すでに200人規模のコンサートを開くことも考えているのですよ。
誰かがこの建物を使う代わりに、一週間くらいホテルの部屋を借りなくてはいけなくなったとしても気にしません。もしくは中で何かが行われていたとしても、そこで寝るだけです。
ブライトシュミッド・ハウスとは呼ばずに、マナホーク・ハウスと呼ぶこともとても重要です。そうすることで、ほとんどの人は、それが何のことなのかわからないでしょう。建物に特定の人の名前をつけないのは意図的です。それに、家と呼ぶことにも注意が必要です。というのも、普通の意味での家ではないと思っていますから。むしろある種の文化的人工物として考えています。
素材の話をしましょう。「ノンレファレンシャル・アーキテクチャー」の「単一素材の原則」の章を読んだ後に、波板鋼板とコンクリート、そしてアスファルトでできたこの家を見ることで、いくつかの疑問が湧いてきました。全ての素材に黒い影が落ちることが、建物の素材の一貫性に貢献しているということでしょうか?
アメリカでは、前庭と後庭の文化があって、つまり二つの全く異なる世界が存在することとなるのです。人々が普通、前庭を大切にするのは、外からの見た目が重要だからですよね。もちろん我々はそんなことには興味がないので、車道からは、アスファルトのプラットフォームへと直接乗り入れるのです。ヴァレリオがやりたかった多孔質のアスファルトは内部ではうまく機能しませんよ。だから基本的には床材は二つとなりました。家の内部の床材は、ラフでとても暗い、無煙炭色のコンクリートです。素材を具現化していく目的は、素材の属性とできる方法を用いて、十分な異化作用を作り出すことにあるのです。大事なことは、他のあらゆる手段に先んじて建物が形式的なアイデアとして存在することです。
この特殊な建物とその性格から、これらの素材は適切だったと思っているのです。オルジアティはたぶん全てをコンクリートで作りたかったと思いますが - 私にはどうもその余裕がなくてね。プラットフォームは地球に属するものです。その上に、薄くてほとんど布のような金属の板を設置する。建物自体は三角形で、すベて金属。窓以外はね。
同じように要素還元的な手法によって、この家は、閉じた不透明なオブジェクトとして内部と外部を明確に分けていると思います。また非常に大きな窓もありますね。内部と外部との関係はどういったものになるのでしょうか?
スライディングウィンドウはプラットフォームまでは降りて来ずに、20センチほどの立ち上がりが来る予定です。家の中のキッチンカウンターの場所では、窓を開けると、敷居をまたぐことになるのです。大きな窓があるのですが、外を眺めているときは、それは窓というよりもやはり壁の一部なのです。内部-外部の関係についてのあなた方の具体的な質問に関してですが、ヴァレリオがどう捉えていたかを考えるきっかけとなりますね。その意味では、これはテントのようなものでしょう。テントでは、どうにかこうにか布をわきに押したりして、中に滑り込んで行きますよね。つまり中に入るか外にいるかは意識的に決めることなのです。
開口部は、光源でもあって、境界線でもあるのです。これらの窓を背にして、まずは外を見渡そうとは思いませんよね。中にいる、というわけでもなく、少しだけ外を感じるという状態のことですが。いずれにせよ、それは意図していることではないですし、大きな部屋からはそんなに遠くまで見渡すことはできません。木々の続く末端まで歩いていって、そこから遠くを見ない限りは。
その他にも、別の矛盾があったりして、私はこの特別な場所に惹きつけられているのです。この土地は、近隣の中でも、たくさんの木々の育つ唯一の土地で、大きなオークの木やカエデの木があるので、春や秋、全ての季節の変化を感じることができますよ。とてもドラマチックです。
夏の間は、この家は葉っぱのキャノピーに守られているのですが、その一方で、冬はかなり開いてしまって剥き出しになってしまいます。季節ごとに周囲の木々の密度が変化することで、この土地での内-外間の生活の複雑さが強調されるのです。家から出てもすぐには外へと晒されるわけではないのです。それにアパラチア山脈とブルー・リッジ山脈の景色が連続的に広がっているのですよ。
この家において、アパラチア山脈の環境というものは、どのような役割を果たしているのでしょうか?
ヨーロッパの人たちは、アメリカを若い国だと思っていますが、この土地を見ていただければ、いかにここが古いものかわかるでしょう。かなり古いのですよ - だって我々の地球上で最も古い土地の一つですから。地質学的には、アルプス山脈やヒマラヤ山脈よりもずっと古いですし、そう感じられると思います。近くにある川は、ニューリバーという名前なのですが、世界で二番目に古い川なのです。ここに来て、いくらか周囲の状況を把握できるようなると、そのことに気付きますよ。古代の土地にいることを実感して、それが特別な感覚を与えてくれるのです。このような風景を見ていると、世界のことや宇宙論、そして私たちがどこから来てどこへ行くのか、などを考えさせられます。モニュメンタルなことですね。生々しくて、荒々しくもあるような。気難しいような細かさは全くなくて。私たちが抱くようなアルカディアのイメージとは真逆です - 地中海から連想されるような、うわべだけの牧歌的な無邪気さとはね。この土地は全く粗野なところではなく、特に冬はそうですね。冬にはこの土地は最高なのです。不毛だけど、開放的で。奥行きがある。ロスコやポロックの絵画のようですね。
イマジネーションの世界を広げて、可能性を示唆してくれる。それはこの土地の本質的な性質ですし、この家はその形態とその素材によってそのことを摑んでいるのです。この風景の存在は、古代のネイティブアメリカンの部族がゆったりと土地を移動するキャラバンを想像させるのです。儀式での反時計周りの輪舞「Ly-O-Lay Ale Loya」を唱えているのを聞いたりするとね。
だからね、さっき言ったように、この家を車に積んで50マイル先の次の場所で降ろしたりして、ほらネイティブアメリカンの遊牧民のテントとそう変わらないなと、想像できるでしょう。いやほんとに、この家に来てみたら、シャーマンになった気分になると思いますよ。
インスタグラムで公開されたイラストには山の断面が描かれていましたね。これは一体何を表しているのでしょうか?
トーマス・ジェファーソン、私が過去500年で最も重要な声明文だと考えている、あの独立宣言を書いた彼は、ヴァージニア州に住んでいて、この近くにネイティブ・アメリカンの埋葬地があることを発見したのです。彼はこの近くに土地も所有していました。
アメリカの東部で、古代建築物の名残はといえば、これらの人工的なマウンドだけですね。何千年もの間かわかりませんが、ここに住んでいた古代部族の痕跡は何も残っていません。そのイラストを投稿したのは、この家に編み込まれたたくさんのインスピレーションが何となくですが、集約されていたからです。ただ何かを真似ているのではないし、過去のことでもなく、何かの物語でもないのです。歴史とかそういうことでもありません。少しでも何かを読みとろうとされるのであれば、それは正反対のことでしょうね。歴史や時間を超えたものだと思います。それはもっと時間を超越したもので、時間の存在しない場所で生きるということです。測ることのできないね。ある種の広大さ。自由。この土地のことを熟知したヴァージニア人が、個人に自由を与えるための文章を書けたことは、たぶん偶然ではないだろうと思う時があるのです。私も、とても自由な建物に住めるのだろうと思っていますよ。
2021年3月6日
Markus Breitschmid: I remember Valerio Olgiati saying in one of his lectures: „I have a client who wants to be homeless”. I believe he was referring to me. I like changing the places where I live, and I especially appreciate the nomadic quality of not being attached too much to one country or territory. I left Europe behind and embraced living in America. Because I am still spending around four months in Europe every year, I’m very careful not to let my lives in Europe and in America conflate into one. I try to keep the rhythms of life and the rituals of life of each place quite different from each other. Valerio knows all of that. So, when I came up with the idea to build a house in America, it was a natural choice that he would be the architect. The Manahoac House is a continuation of our work together. Making a building is obviously a different kind of undertaking than writing a book or making an interview, but in a way, I see it as another chapter. I think we have both grown or, at least, speaking for myself, my understanding of architecture has grown thanks to my long relationship with Valerio. If you read the books we have published, and look at the architecture he has made, you can see a continuous evolution of thought.
WHAT WAS YOUR INITIAL DREAM? HOW DID YOU EXPRESS TO VALERIO WHAT YOU WANTED?
I gave him a budget and I said that he could do whatever he imagined. The only condition was that I have things to store, and I need a kitchen to cook in. But other than that, I gave him complete freedom. It is a little fatalistic on my part, but I always took the position: You cannot ask a very good architect to build a building and then tell him what to do. If you want to dictate how a house should be like, get a mediocre architect.
THE HOUSE HAS ESSENTIALLY THREE MAIN ELEMENTS - THE PLATFORM, THE A-FRAME AND THE CYLINDER. HOW WOULD YOU DESCRIBE THE QUALITY OF THE CYLINDRICAL VOLUME THAT OCCUPIES THE CENTRE OF THE HOUSE?
There are two main values. Obviously, the utilitarian aspect - it has to be a functional house. Everything that needs to be stored goes in the cylinder.
The main quality, however, is the space-making one. The fact that the cylinder is moved off centre in plan, structures the space into several very distinct areas. The front face of the room where the sliding window is, will be thirty-three feet tall (around 11 m), whilst at other points it goes all the way down to zero. At the same time the position of the cylinder brings the room to just four feet (1.2 m) wide, at the pinch points, a closeness that forms strong thresholds, without the need of doors or frames. Passing from one side of the cylinder to the other, you cross the strait in front of the tall main window and arrive at a small pocket. This is the most protected space, where out of primal instinct, you naturally go to sleep. It has a cave-like quality, and thanks to the position of the cylinder, as you go deeper, everything becomes more enclosed and dissolves into darkness. There are no windows at all.
On the other side, where I might work, you have the same delineation of space, but there is a seven-meter-long window cut into the roof, through which light enters, and, if you want to, through which you can look out at the trees. It’s an unbelievably simple house, but by being attentive to how space is formed and the way it will be illuminated, it becomes an extremely differentiated and rich space.
If the cylinder was in the middle, this would be a completely different, much poorer, and more predictable space. Valerio designed something very complex by simply combining a cylinder with an A-frame in a very precise way. I don’t know exactly where the boundaries between these spaces will be. You can try to imagine it the way I explain it. You could think of them as kind of thresholds, but of course, there are no real doors or lintels or any of those things that you typically have when you make chambers.
Inside the cylinder we will use the most conventional drywall, painted white and illuminated by very bright LED lights. When you enter the house from the garage, or leave from the grand dim space, you go into this kind of laboratory-like space. A steel staircase will take you up to the attic. There will also be a utilitarian metal sink, a large refrigerator, a freezer, a washer and dryer, and some cabinets. Even though these are all domestic objects, we will try not to materialize them in a ‘homely’ way, and work on keeping the differentiation between what is inside the cylinder and what is the cult space, as I call it, as strong as possible.
HAVING SEEN THE DRAWINGS, WHAT STRUCK US WAS THE USE OF ONE ELEMENT OF EACH TYPE: ONE HORIZONTAL WINDOW, ONE DOOR, ONE SKYLIGHT, ONE CYLINDER AND ONE A-FRAME. LATER AN EXCEPTION OCCURRED IN THIS SYSTEM, YOU HAVE NOW TWO SKYLIGHTS. WE WERE WONDERING AND WANTED TO ASK YOU, WHAT IS PRODUCED SPATIALLY WHEN A BUILDING IS COMPOSED OF SINGULAR ELEMENTS PUT TOGETHER?
It’s an interesting question; what is the effect of a singular element on the composition of a building?
A good reference in that regard would be the Plantahof auditorium in Landquart.
When you go there and you see all these structural pieces, the beam, the column and so on, you almost think it is a kind of a decoration because it’s only there once and it looks as if it was somehow attached. If you don’t walk around and you just go inside, you cannot understand the logic of the building. If you saw a bunch of columns, you would say, ok, it’s the structure. But in this case, all the elements are unique, there is the slanted column coming down and the beam holding up the roof. You have to stitch them all together in your head. You go outside, you see the column, you see the walls, you see the roof and slowly you are able to connect everything. You understand that in order to keep its qualities, it actually couldn’t have been built in any other way, because the dimensions and distances were too big.
In the Manahoac House, it might look like an addition of singular elements at first. In reality, it’s exactly the opposite. It’s an organism that really couldn’t perform as a building and preserve its spatial qualities in any other way. In Landquart, it is given by an extreme use of structure. In this house, structure is not the main space-making element. The cylinder doesn’t participate in any way to hold up the A-frame. Here we speak more about volumes of solid and void that bind diverse complementary spaces together and creates an organism that wouldn’t work if any part was removed or added. It is Valerio’s mastery of architectonic space: to make something so spatially and atmospherically complex out of something so basic.
IN RELATION TO THE NOMADIC QUALITIES, YOU SPOKE ABOUT, WAS IT YOUR INTENTION TO GIVE THE HOUSE THE CHARACTER OF A TENT?
I don’t see it as just a tent. It’s also a temple. It’s a tent-temple – which I realise is a contradiction. The idea is that the house has been there forever, but also that it could move somewhere else. It was very important to let these two extremes be present and co-exist.
The triangle stands slightly elevated on a platform with large, grown trees around it. The concrete will soon be covered with moss and grow a patina. Pretty quickly, it will look like something beyond time. Yet, having the shape of such an abstract object, the patina will be something, that at first glance, won’t match. The house itself will be a steel frame construction, coated with corrugated steel and hand-painted in anthracite color on the outside and inside. When you get close to it, you will see it has a tent-like fragile quality. Something that is temporary and has been built quickly. But then from a distance, it will present itself more as a temple among the trees.
We want it to feel like a temple and therefore we don’t want it to feel domestic in any way. In the large, tall space, the only reference to something that has to do with a house is going to be the faucet of the kitchen. Water comes out, it means that somebody spends time here, nothing more.
YOU SAID THIS HOUSE IS DESIGNED WITH AN AMBITION NOT TO BE DOMESTIC. WHY IS IT IMPORTANT TO YOU NOT TO HAVE A COZY HOUSE?
I can imagine, and I find it interesting, to use this building in different ways and not always as a place to live in. A cozy house is not so easy to transform into something else. A cozy house is also not a place that inspires me to imagine things at a certain scale and of a certain magnitude. I am not against coziness in the right place and moment but this typical sense of coziness that we see in many houses is too contained and too restricting for me.
For me it’s important that these rooms have a cultural dimension, transforming into a public space, a research center, an exhibition room, or a concert hall on any given day of the week. I have a friend who is a piano player, and we are already planning a concert for around 200 people.
I don’t mind if I sometimes have to rent a room in a hotel for a week because somebody else is using the building. Or I’ll just sleep amongst whatever is taking place inside.
The fact that we don’t call it Breitschmid House, but Manahoac House is very important. We do this so most people have no idea what it’s about. Not attaching a person to the building is intentional. We should also be careful calling it a house, as I am sure that it isn’t really a house in the conventional sense. I see it rather as a kind of cultural artifice.
LET’S TALK ABOUT MATERIALS. READING „NON-REFERENTIAL ARCHITECTURE” AND THE CHAPTER ABOUT THE PRINCIPLE OF ONE MATERIAL, AND LATER SEEING THIS HOUSE, WITH CORRUGATED STEEL, CONCRETE, AND ASPHALT, RAISES SOME ADDITIONAL QUESTIONS. DOES THE FACT THAT EVERYTHING HAS A SHADE OF BLACK CONTRIBUTE TO THE MATERIAL COHERENCE OF THE BUILDING?
In the USA, there’s the front yard and back yard culture and consequently these are often two completely different worlds. People usually take care of the front yard because the appearance towards the outside is important. Of course, we are not interested in this. From the street, you drive onto a platform covered with asphalt. The porosity that Valerio wants for the asphalt doesn’t really work for the inside. So, there are basically two floor materials. The floor inside the house is a somewhat rough, very dark, anthracite-colored concrete. The aim of the materialization is to produce a sufficient distancing-effect with the available means and attributes of materials. What’s important is that the building is present as a formal idea prior to all other ways.
I think for this particular building and its character, the materials are correct, even though Olgiati probably would have preferred to do everything in concrete – something I could not afford. The platform is what belongs to the earth. You then put thin, almost fabric-like metal sheets on top of it. The building proper, the triangle, is all made in metal, except the windows.
IN A SIMILAR ELEMENTAL WAY, THE HOUSE IS A VERY CONTAINED OPAQUE OBJECT THAT CLEARLY DIVIDES THE SPACES INTO INTERIOR AND EXTERIOR AREAS. THERE ARE ALSO VERY BIG WINDOWS. WHAT WILL THE RELATIONSHIP BETWEEN INTERIOR AND EXTERIOR BE LIKE?
The sliding window doesn’t go all the way down to the platform. There will be around a 20-centimetre upstand. When you are inside, where the kitchen counter is, and you open the window, you cross a threshold. Even though there’s a big window, and you can look out, it’s more part of the wall. Regarding your specific question about the relationship between inside-outside, it also gives an idea of how Valerio conceived it. In this sense, it is like a tent, because in a tent you somehow, push some fabric aside and you slide in. So, it’s a conscious decision to be either inside or outside.
The openings are more light sources and thresholds. I don’t imagine the first thing you do is to sit behind these windows and look out; it is not about being inside but feeling a bit outside. That’s not the intention at all and in any case, from the big room you don’t see very far anyway. You have to walk towards the edge where the trees stop and that’s where you see into the far.
Something else, another contradiction, attracted me to this particular place. It’s the only piece of land in the neighbourhood with so many trees, large oaks and maples, and with all the seasonal changes of spring and fall. It’s quite dramatic.
During the summer it is protected by a canopy of leaves whilst its quite open and bare in winter. The change in density, between seasons, of the surrounding trees also heightens the complexity between the interior and exterior life of the land. When leaving the house, you are not immediately exposed. What is continuous is the view, from the edge of my plot, of the Appalachian and Blue Ridge Mountains.
WHAT ROLE DO THE SURROUNDING APPALACHIAN MOUNTAINS PLAY IN THE HOUSE?
Europeans usually consider America as a young country, but if you look at the land here, you can feel how old the land really is. This is very old land – among the very oldest lands on our planet. Geologically, it’s much older than the Alps or the Himalayas. And you can feel that. The nearby river, named the New River, is the second oldest river in the world. When you come here and you’re somewhat perceptive to your surroundings, you become aware of this. You realise that you’re in an ancient land and this gives it a special feeling. This kind of landscape always makes me think of the universe, about cosmology, and where we are from, where we are going, and so on. It is rather monumental. Raw. Rough even. Not finicky at all. It is the opposite of the image we have of Arcadia – the idyllic innocence of the seemingly untroubled that is associate with the Mediterranean. The land here is not rustic at all. Particularly in the winter. In the winter the land is the best: barren, yet open. There is depth. It is like a painting by Rothko or Pollock.
It opens a world of imagination and suggests possibilities. It is an intrinsic quality of this land, and the house captures it in its form and materialization. The presence of this landscape makes me also imagine a caravan of ancient Native American tribes moving slowly across the land. Or when you would hear them chanting Ly-O-Lay Ale Loya, known as Counterclockwise Circle Dance, during a rite.
Therefore, as I told you before, I can imagine that I could load the house on a vehicle and un-pack it in the next place, fifty miles down the road, not unlike a native American nomadic tribal tent. I tell you, when you come and visit you will feel a little bit like a shaman.
THE ILLUSTRATION YOU PUBLISHED ON INSTAGRAM SHOWS THE SECTION OF A MOUNTAIN. WHAT DOES IT REPRESENT EXACTLY?
Thomas Jefferson, who wrote the Declaration of Independence, which I find the most important announcement written by anyone in the last 500 years, lived here in Virginia and discovered some of the Native Americans burial sites. He owned some of the land nearby.
In the eastern part of America, the only remnants of ancient structures are these artificial mounds. There is nothing else left of the ancient tribes that lived here for I don’t know how many thousands of years. I posted it because the illustration somehow summarises a lot of inspirations that are woven into this house. However, it is not about emulating anything, it is not about the past, not about some story-telling. It is not about history or something. If you want to read anything into it at all, it would be more about the exact opposite: things beyond history and time. It is more about the timeless and living in a place with no time. No measuring. A certain kind of vastness. Liberty. Sometimes, I think it is maybe not accidental that a Virginian, who knew this land well, was capable of writing the text that would set individuals free. I think I get to live in a very liberating building.
06.03.2021
马克斯·布赖特施密德: 我记得瓦列里奥·奥尔加蒂(Valerio Olgiati)在他的一次演讲中说 “我有一个客户,他想成为无家可归的人”。我相信他指的是我。我喜欢改变居住的地点,尤其欣赏游牧民族的品质,不太依附于一个国家或地区。我离开了欧洲,拥抱在美国的生活。但因为我每年仍会花四个月左右的时间在欧洲,所以我非常小心,不让我在欧洲和美国的生活混为一体。我试图保持每个地方的生活节奏和生活仪式之间有所区别。瓦列里奥知道这一切。因此,当我有了在美国建造住宅的想法时,由他来担任建筑师是一个自然的选择。马纳霍克之家(Manahoac House)是我们一起工作的延续。建造一座建筑与写书或采访比起来,显然是不同的事业,但在某种程度上,也可视为另一个章节的写作。我认为我们都成长了,或者至少,就我自己而言,由于我与瓦列里奥的长期关系,我对建筑的理解也在不断加深。如果你读一下我们出版的书,看看他做的建筑,你可以看到思想的不断演变。
你最初的梦想是什么?你是如何向瓦列里奥表达你的愿望的?
我给了他一个预算并告诉他可以做任何他想象的事情。唯一的条件是,我有东西要储存,而且我需要一个厨房来做饭。但除此以外,我给了他完全的自由。
这对我来说有点宿命论,但我总是采取这种立场。你不能要求一个非常好的建筑师来建造一栋建筑,然后告诉他该怎么做。如果你想规定一所房子应该是什么样的,那就找一个平庸的建筑师。
这座房子基本上有三个主要元素——平台、A型框架和圆柱体。你如何描述占据房子中心的圆柱体的品质?
有两个主要的价值。很明显,功利性方面--它必须是一个功能性的房子。所有需要储存的东西都在圆柱体里。
然而,主要的价值在于创造空间。事实上,圆柱体在平面上从中心移开,将空间结构分成几个鲜明的区域。推拉窗所在的房间正面将有33英尺高(约11米),而在其他地方则一直变矮趋近于零。同时,圆柱体的位置使房间在斜顶处仅有四英尺(1.2米)宽,这种紧密程度形成了强大的门洞感,而不需要门或框架。从圆筒的一侧到另一侧,你穿过高大的主窗前的海峡,到达一个小袋子。这是最受保护的空间,出于原始的本能,你自然会在这里睡觉。它有一种洞穴般的质量,得益于圆柱体的位置,随着你的深入,一切都变得更加封闭,并溶入黑暗。那里完全没有窗户。
在另一边,也就是我可能工作的地方,你有同样的空间划分,但有一个七米长的窗户切入屋顶,光线由此进入,如果愿意,你可以透过它看到外面的树。这是一个简单得令人难以置信的住宅,但因关注于空间被如何塑造和照亮,它成为了一个极其不同而丰富的空间。
如果圆柱体居中,这将会成为一个完全不同,更贫乏,更可预测的空间。瓦列里奥通过简单地将圆柱体和A型框架以一种非常精确的方式结合起来,设计出了非常复杂的事物。我不知道这些空间之间的边界到底会在哪里。你可以试着按照我解释的方式来想象。你可以把它们看作是一种门洞,但当然,没有真正的门或门楣或任何这些通常在制造房间时出现的东西。
在圆柱体内部,我们将使用最传统的石膏板,涂成白色,由非常明亮的LED灯照亮。当你从车库进入房子,或从宏伟的昏暗空间离开时,你会进入这种类似实验室的空间。一个钢制的楼梯将带你到阁楼上。那里会有一个功能性的金属水槽,大冰箱,冰柜,洗衣机和烘干机,以及一些柜子。尽管这些都是居家用品,但我们将尽量不以 “家庭 “的方式将它们具体化,并努力使圆筒内的东西和我所说的邪典空间之间的区别尽可能强烈。
在看过图纸后,冲击到我们的是每种类型都使用了一个元素:一个水平窗,一个门,一个天窗,一个圆筒和一个A型框架。后来在这个系统中出现了一个例外,现在有了两个天窗。我们想知道并好奇的是,当一个建筑由单一的元素组成时,在空间上会出现些什么?
这是一个有趣的问题;单一的元素的构成对一个建筑有什么影响?
这方面的一个很好的参照物是兰德夸特的报告厅(the Plantahof auditorium in Landquart)。
当你去那里,看到所有这些结构件,梁、柱等等,你几乎认为这是一种装饰,因为只出现了一次,而且看起来好像以某种方式相连。如果你没有四处走走,而是直接进入,你就无法理解这座建筑的逻辑。例如你看到一堆柱子,那你会说,好吧,这就是结构。但在这种情况下,所有的元素都是独一无二的,有斜下来的柱子,有撑起屋顶的梁。你必须在脑海中把它们全部拼凑起来。你走到外面,看到了柱子、墙、屋顶,慢慢地你就能把一切联系起来。你理解到,为了保持它的品质,它实际上不可能以任何其他方式建造,因为尺寸和距离都太大了。
在马纳霍克之家里,一开始可能看起来是一些单一的元素的叠加。在现实中,它正好相反。它是一个确实无法表现为建筑的有机体,不能以任何其他方式保存其空间质量。在兰德夸特,它由对结构的极端使用成就。在这所房子里,结构不是创造空间的主要元素。圆柱体没有以任何方式参与支撑A型框架。在这里,我们更多谈论的是实体和空隙的体积,它将不同的互补空间结合在一起,并创造了一个有机体,如果任何部分被移除或增加,它就不会工作。这是瓦列里奥对建筑空间的掌握:用如此基本的东西做出如此复杂的空间和气氛。
关于你所说的游牧民族的特质,你的意图是让住宅具有帐篷的特征吗?
我不认为它只是一个帐篷。它也是一座寺庙。它是一个“帐篷寺庙”—— 我意识到这是一个矛盾。这个想法是,住宅永远在那里,但它也可以搬到其他地方。让这两个极端呈现并共存是很重要的。
三角形站在一个平台上略微抬高,周围有巨大的、生长着的树木。混凝土不久就会被苔藓覆盖,并长出一种铜锈。很快的,它将看起来像超越时间的事物。然而,有了这样一个抽象物体的形状,铜绿就会成为一种乍看起来不匹配的东西。房子本身将会是钢架构筑物,覆盖着波纹钢板,内外都是手工涂的炭黑色。当你靠近它时,你会发现它有一种帐篷般脆弱的品质。一个具有临时性并快速建造的事物。但从远处看,它将更多地呈现为树丛中的一座寺庙。
我们希望它像一座寺庙,因此我们不希望它在任何方面有居家的感觉。在这个大而高的空间里,唯一能参照住宅的东西就是厨房的水龙头。水的流出,意味着有人在这里度过了时间,仅此而已。
你说这座住宅的设计有着不想居家化的雄心。为什么一个不惬意的住宅对你很重要?
我可以想象,并觉得有趣的是,以不同的方式使用这个建筑,而不总是作为一个居住的地方。惬意的住宅不是那么容易转变为其他东西。惬意的住宅也不是一个能激发我想象力到一定规模和程度的地方。我不反对在适当的地点和时间的舒适感,但我们在许多住宅里看到的这种典型的舒适感对我来说太封闭和限制了。
对我来说,重要的是这些房间有一个文化维度,在一周中的任何一天都能转变为公共空间、研究中心、展厅或音乐厅。我有个朋友是个钢琴演奏家,我们已经在计划一场大约200人的音乐会。
如果我有时不得不在酒店租一个房间住一个星期,因为别人在使用这栋楼,我也不介意。或者我就睡在其中,无论里面发生任何事情。
我们不叫它布赖特施密德之家(Breitschmid House),而叫马纳霍克之家,这一点非常重要。我们这样做是为了让大多数人不知道它是干什么的。不把人与建筑联系起来是有意为之。我们也应该谨慎地称它为住宅,因为我确信它不是传统意义上的真正的住宅。我把它看作是一种文化构筑物。
让我们来谈谈材料。阅读 “非参照性建筑 “中关于一种材料的原则的章节,以及后来看到这所房子,用波纹钢板、混凝土和沥青,引发了一些额外的问题。所有东西都有一个黑色的阴影,这是否有助于建筑的材料一致性?
在美国,有前院和后院的文化,因此这往往是两个完全不同的世界。人们通常照顾前院,因为对外面的外观很重要。当然,我们对这个不感兴趣。从大街上,你开到一个覆盖着沥青的平台上。瓦列里奥希望的沥青的多孔性对室内来说并不适用。因此,基本上有两种地板材料。房子里的地板是一种有点粗糙的、非常暗的、炭黑色的混凝土。材质化的目的是在可行的方法和材料的属性间产生足够的疏远效果。重要的是,建筑被呈现为一个形式的概念,优先所有其他方式。
我认为对于这个特殊的建筑和它的特点来说,材料是正确的,尽管奥尔加蒂可能更愿意用混凝土来做所有的事情——这是我不能承受的。平台是属于地球的东西。然后你把薄的、几乎像织物一样的金属板放在上面。建筑物本身,即三角形,都是用金属制成的,除了窗户。
以类似的元素构成方式,这座住宅是一个非常封闭的不透明物体,明确地将空间划分为内部和外部区域。也有着非常大的窗户。这样的话室内外之间的关系将是怎样的?
推拉窗并不一直延伸到平台上。会有大约20厘米的立柱。当你在里面,也就是厨房柜台所在的地方,打开窗户,你就跨过了一个门洞。尽管有一个大窗户,你可以向外看,但它更像是墙的一部分。关于你的具体问题,即室内外之间的关系,这也让我们了解到瓦列里奥是如何构思的。在这个意义上,它就像一个帐篷,因为在一个帐篷里,你不知觉中把一些布料推到一边,你就钻进去了。所以,这是一个有意识的决定,要么在里面要么在外面。
这些开口更多是光源和门洞。我不认为你会做的第一件事是坐在这些窗户后面向外看;这不是关乎于人在室内而感到一点身处室外。这绝对不是意图所在,而且无论如何,从大房间里你也看不到很远。你必须走到树木停止的边缘,那是你看到远方的地方。
还有一些东西,另一个矛盾,吸引我来到这个特殊的地方。这是附近唯一一块有这么多树的土地,巨大的橡树和枫树,有着春秋两季的所有季节性变化。这是相当戏剧性的。
在夏季,它受到树冠的保护,而在冬季则是相当开放和裸露的。四季之间,周围树木的密度变化也加剧了土地内部和外部生活的复杂性。当离开房子时,你不会立即暴露在外面。连续的是视线,从我的地块边缘,到阿巴拉契亚山脉和蓝岭山脉。
周围的阿巴拉契亚山脉在这所座住宅中扮演了什么角色?
欧洲人通常认为美国是一个年轻的国家,但如果你看一下这里的土地,你就能感觉到它到底有多古老。这是一片非常远古的土地——属于我们星球上最古老的土地之一。在地质学上,它比阿尔卑斯山或喜马拉雅山还要久远。而且你可以感觉到这一点。附近的河流,名为新河,是世界上第二古老的河流。当你来到这里,对周围的环境有一定的感知能力后,你就会察觉到这一点。你会意识到自己是在一片古老的土地上,这带给它一种特殊的感觉。这种景观总是让我想到宇宙,想到宇宙学,想到我们从何而来,又去向何方,等等。它是相当纪念性的,原始,甚至粗糙。完全不精细。它与我们对阿卡迪亚的印象截然相反——无忧的田园诗般的纯真,让人联想到地中海。这里的土地毫不乡野。特别是在冬天。冬天这片土地是最好的:荒芜,但又开放。这有其深度。它就像罗斯科(Rothko)或波洛克(Pollock)的画作。
它打开了一个想象的世界,暗示了各种可能性。这是这片土地的内在品质,而这座住宅在形式和物化上抓住了它。这种景观的存在也使我想象到古代美洲原住民部落的大篷车在这片土地上缓缓移动。或者当你听到他们在祭典上吟唱《Ly-O-Lay Ale Loya》,也被称为《逆时针环形舞》。
因此,正如我之前告诉你的那样,我可以想象,我可以把住宅装到车上,然后在下一个地方,五十英里远的路上把它卸下来,这和美国本土游牧部落的帐篷没有什么区别。我可以说,当你来参观时,你会觉得有点像一个巫觋。
你在Instagram上发表的插图展示了一座山的截面。它到底代表什么?
托马斯-杰斐逊写了《独立宣言》,我认为这是过去500年,所有人中写的最重要的公告,他曾在弗吉尼亚州居住,并发现了一些美国原住民的埋葬地。他还拥有附近的一些土地。
在美国东部地区,古代建筑的唯一遗迹是这些人工土丘。在这里生活了不知道多少万年的古代部落没有留下其他东西。我把它贴出来是因为这幅插图在某种程度上概括了交织在这所房子里的很多灵感。然而,这并不关乎于要模仿什么,不关乎于过去,也不关乎于故事的讲述。它不关乎于历史或什么的。如果你想在其中读出一些东西,那更多地是完全相反的事物:超越历史和时间的事物。它更多地是关于永恒和生活在一个没有时间的地方。没有测量,某种广袤的境界,自由。有时,我想,一个熟悉这片土地的弗吉尼亚人能够写出让个人获得自由的文字,这也许不是偶然的。我想我能住在一个非常自由的建筑里。
2021年3月6日
M. Breitschmid
Markus Breitschmid (*1966) is an American-Swiss architecture theoretician and an author on architecture. His books focus on contemporary architecture and philosophical aesthetics. His most highly regarded books are Der bauende Geist. Friedrich Nietzsche und die Architektur(2001), The Significance of the Idea. The Architecture of Valerio Olgiati (2008), and Non-Referential Architecture (2018).
M. Breitschmid
Markus Breitschmid (*1966) is an American-Swiss architecture theoretician and an author on architecture. His books focus on contemporary architecture and philosophical aesthetics. His most highly regarded books are Der bauende Geist. Friedrich Nietzsche und die Architektur(2001), The Significance of the Idea. The Architecture of Valerio Olgiati (2008), and Non-Referential Architecture (2018).
M. Breitschmid
Markus Breitschmid (*1966) is an American-Swiss architecture theoretician and an author on architecture. His books focus on contemporary architecture and philosophical aesthetics. His most highly regarded books are Der bauende Geist. Friedrich Nietzsche und die Architektur(2001), The Significance of the Idea. The Architecture of Valerio Olgiati (2008), and Non-Referential Architecture (2018).